カテゴリー「大穴と青空」の記事

2009年11月 6日 (金)

Jump(21)

 トニーからちょっと元気のない連絡があった。

 「僕がしばらくフケてた間に、モロ平は新しい投資顧問を雇ったんだ。ああ、某OK大出身で美国のインベストバンクで修行したやつらしいのだけど、そいつにはめ込まれて大穴あけちまったらしい。で、年末の東欧調査旅行なんだけど、資金提供はキャンセルする。って突然いいだした。・・・まったく、相変わらず、ケツの穴の小さいやつだ。
 おまけに、ぼくは健康診断で肺気腫だっていわれちゃってさ・・・」

 肺気腫・・そんなのあたりまえ、だって、トニーはご飯のおかずに一服してるようなやつなんだから同情の余地はない。しかし、トニーの話がほんとならモロ平は大人じゃないな。

 で、モロ平にコンタクトしてみた。
 「トニーが、モロ平のことケツの穴が小さいっていってたよ」

 「まっ、そういうなよ・・・あのな、だいたい、今東欧旅行なんてやってる場合じゃないぞっ・・・今日、金がニューヨークで最高値をつけたんだ。
 
 リーマンショック以来、美国ドルは世界基軸通貨の地位から滑り落ちるといわれ続け、しかし、かといってそれに変わる世界基軸通貨の登場には時間がかかる。ならその間とりあえずしばらく金がその役割を担うだろうってなストーリーでだな、あくまでストーリーだよ・・金はじり高だったんだがな、美国の手先機関のIMFがだなぁ、このストーリーを察知してIMFが抱え込んでる金の延べ棒を大量に市場に放出すると発表したんだ。
 
 一般には、このIMFの行動は、金の高騰が美国の世界基軸通貨からの凋落を目で見える形にしてしまうのを恐れて、金を大量放出、金価格を押さえようとしている、といわれてたんだがな・・・・
 
 じつは裏情報では、中国とIMF(美国)の間に裏取引があって、放出された金は中国が買い取ることに決まっている。といわれてたんだ。
 
 どうしてかというと、いままで中国は外貨準備のほとんどを美国国債購入にまわしていた。しかし美国ドルが世界基軸通貨の地位から滑り落ちるということは美国国債の暴落を意味する。中国が今まで稼いだお金が一気にフットブ危機に直面してしまっていた。今まで美国国債一辺倒だった資金を世界中の鉱物資源買いあさりにまわしてたりし始めていた。だが金だけは買いたくても中国には買えない事情があった。金の現物、延べ棒をもってるのはIMFと美国だけといってもいいくらいで、市場にはごくわずかしか出回らないんだ。
 
 美国は美国でリーマンショックの後始末のためにまだまだ偽札、つまり美国国債をだなあ、刷らなければならない。でも暴落することが決定的な美国の国債を誰が買うというんだ?そんなわけで裏取引が成立することになるんだよ。国債の売れ残りは美国国債の暴落に直結するから、今までどうり中国には大量に美国国債を引き受けてもらわなければならない。
 
 現在世界の金のほとんどをIMFと美国政府が現在は握っている。「美国国債を買ってくれれば金を市場に放出する。」中国は買いたくても金を買えなかったのだから渡りに船だろ。

 そんな裏話があったんだが、実に昨日、インドがIMFの放出した金の半分を買い取っていたことが発表された。インドにしても事情は中国と同じだった。
 
 近々残りの半分は中国が買いましたと発表されるだろ?
 金価格は高騰するだろ?そう思わないかいダニー・・・・」

 どうやら、モロ平は大穴の穴埋めに東欧旅行の資金までケチって金に投資しようとしているらしかった。まったく!

 
 
 ああ、エティ氏からはその後連絡はない。今度こそエティ氏のフイゴについて質問しなければならない。氏が昔書かれたご本で事前学習した。

 「フイゴは金属精錬と起源を同じくする。あるいは発火装置として、より早い起源をもつ。

 柩(くるる)・鼓扇(あてり)・風溜まり・羽口、これらが、このフイゴが空気を制する各部分の名称の全部である。

 空気は自分よりも重い物質の上にのみ平等にとどまる。

 ・・・といえるのも此処が陰に覆われ、冷ややかで暗い場所なので、ちょうど天地の間が始動する以前を想わせる、いわば実験室内の静かな条件が整っているせいである。
 
 しかし始動における最初の衝撃はフィゴによるのではない。熱源の往復運動によって、遠くに去る太陽と近づいてくる太陽の潮汐によって、天と地に挟まれた総てのものは動き出す。天地の間のそのものが呼吸を始め、フイゴとなる。

 それよりも、私たちの肺がフイゴなのである。私たちが四季体験する風もまた、天と地の、空間の圧縮と弛緩(太陽熱の強弱により)によって起こる。天地そのものがフイゴなのである。その上、肺というフイゴをもつ私たちの体も天地の間に、即ち巨大なフイゴの中に投げ出されているのである。
 クロソウスキーの『バフォメット』(小島俊明訳)に出てくるフイゴ(そこでは死んだ人の無数の霊息がフイゴにより圧縮され放出されて天使の空間を循環している)

 空気→フイゴ→風→金属精錬・その変形
 
 ・・・古代の金属精錬のタタラ、タタラ師のタタラとは足踏みフイゴのことらしい。」


 僕の調べものののとっかかりになった ’鼓扇’(あてり)なんて言葉は、コアなのでネットで調べてもなかなか出てこない。

 タタラでは三日三晩火を燃やし続けるので、高熱の炉(たたら)のそばで送風機(足踏みフイゴ)を踏むのは重労働だった。この作業を担当するのが番子と呼ばれる人たちで、多分’かわりばんこ’などという言葉はその重労働を物語ってる言葉だと思える。
 
 洋の東西をとわず産鉄に関する昔話などでは、産鉄の神は片目片足で登場することが多いけれど、このフイゴ踏みによって痛んだ足を物語っているのだろう。

 片目の神についていえば、エティ氏はタタラがフイゴだといっているけれど、僕の意見ではタタラ(炉)は子宮を意味しているのだが、そこにはホド(陰土、女陰)穴という小さな穴が穿ってある。村下(むらげ)と呼ばれるタタラバの総技術長はこのホド穴をのぞき炉内部の炎の色で作業進行を判断してゆく。一生続くホド穴のぞきによって村下の高熱にさらされ続けた片目は失われる。


 ああ、最初に挙げたエティ氏のご本の中に「遠くの画布、目の前の絵(作業から作業への結び目=瞬間のために)」という作業日誌ののようなものが載っていて、その日のお天気が記録されてるのだが、時々「空」の文字がみえたので、’青空コレクション’しておく。

 「Ⅺ・28Mon(完璧な青空 冷たくなってゆく)
 今の仕事、これからの仕事を感情で作ってはいけない。冷静に淡々と、つむぐように作業のこと、感情を願望ととりちがえていたのかもしれない。
 この作業に願望は排除すること、
 もう一度、あらためて絵を、おこしなおすこと、
 絵を壊すような、極度に黒いものが必要。」

 「Ⅺ・3・Sat(快晴 冷たい風) 
  Ⅺ・4・Sun(完璧な青空 寒)
 紫色は絵の一要素ではなく、絵を破壊するような要素だ。紫色は祈るように塗る。紫色は自己放下のゆきつくところまでゆきついた底から、起き上がる時の手助けのような感じで塗る。
 そしてまた、自己放下そのものの体の感じを伴って、紫色はやわらかく、おだやかに、やさしく塗る。
 この世界の検体としての描き手、
 検体として画家はこの世界に投げ入れられた。」

 「Ⅻ・22・Th(寒い空 薄曇り)
 弱々しい模索だが、現状なのだから、責めないこと。現状を大事に。
 現状から無理に飛躍することをいましめる。又、この弱々しい模索が不満ならば、もっと落胆するもよし。
 実験をくりかえすこと。画布の空間の模索。」

 「Ⅰ・17・Tue(雪空がはれる)
 兎に角、画布のまえに立てればいい。
 すべての部分と点、どんな細部も、そして全体もこちらに真っすぐ向いていること。
 描く意思、描く心情を排し点から点への造形的な成りゆきにまかせる。
 絵画的粉飾に逃げないこと、野暮な作品を作っているのである。」

 
 うんうんいいながら一歩一歩か・・・・・・
とするとJumpは、ジャンプしようとすることではなく、必然的にジャンプしてるのだなキット・・・でもジャンプに備えて’心構え’だけは片時も忘れてはならない。
 

2009年10月29日 (木)

Jump(20)

 トニーによれば、風のミサキはカンボジアから颱風20号に乗っかって帰ってきてたらしい。

 カンボジアのクメール相撲については
「カンボジアのお盆(プチュン・ベン)の9月17日にカンダル州、ヴィヘア・スウー寺院で相撲を見学したの。この日はほかにも闘牛や、登山の競技も同時に開かれてたわ。クメール相撲はボン・オム・トゥック(水祭り)にも行われるらしいわ・・・・それから、ビザの関係で一度タイに出国してムエタイを見たわ、ムエタイの語源はクメール語で’一対一の決闘って意味らしいの・・・」ってなことを話してたらしい。もっとも風のミサキの関心はクメール相撲とアクロバットの関係についてらしかったということだ。

 闘牛、牛犠牲、水祭り・・・僕は、平林さんのご本の中で引用されていた言葉を思い出した。
 「和歌森太郎氏は、七夕は盆の前提となる行事の日で、水浴びや潔斎を行ったが、これとの関連で相撲が行われる意味があったと説き、目には見えない河童と相撲をとる独り相撲が一種の舞となって相舞と称されたのが相撲の語源であり、水神祭の折にその年後半の実りの豊凶を占う年占いとしての相撲が行われたと説く。」
 野見宿禰と當麻蹶速の相撲、この列島の相撲の起源に関する独自性(葛木地方の倭文氏土師氏に関して)については今まで見てきたとおりだ。


 それから「台風の影響で空港で時間があって、『ダニーがこのごろ書いたものも少し読んだわ。いつか青トラホテルにも行ってみたい』」とも話してたらしい。


 あわてて僕はガスレンジを新調した。それから病院にも行くことにした。
 ああ、新調したガスレンジだけれど、チョウすぐれもだった。「こげ防止センサー付き」なんてうたっていて、しかしまるで信用してなかったけれど、この秋豊漁のサンマなんか定食屋さんのウインドウの見本みたいにきれいに焼き上がる。近頃頻繁に空焚きして火事の心配さえあったのだが、こいつはかってに火を止めてくれる。風のミサキのおかげかガスレンジのご利益か・・・ともかく元気が出て病院に行くことに決めた。

 
 これまでの旅のなかで、’つつ’も’かひ’も古代では、ものを包んでいるようなイメージらしいことがわかってきたのだが、しかし、この二つの言葉が使い分けられているのはなぜだろう?

 ’つつ’には穴がある。’かひ’は閉じている。今の僕にはそんなことくらいしかイメージできない。’つつ’には動詞があるのだけれど、’かひ’には動詞はあるんだろうか?

 ともかく古代の人たちは、生まれる前の世界や、ぼくらがこの世の先に向かうべき世界に、ダイレクトに通じているとは考えなかった節があって、この世とそれらの世界の間の世界を想定していたらしい。

 ’つつ’も’かひ’もどうもこの’間の世界’と関係するらしいのだ。僕らがずっと問題にしてきた’大穴と青空’もどうやらこれらのことと関係があるらしい。

 折口信夫は『霊魂の話』のなかで以下のように書いている。
 「たまごの古い言葉は、かひ(穎)である。「うぐひすの、かひこの中のほとゝぎす」などの用語例が示してゐる様に、たまごの事をかひこと言うた。蚕にも此意味があるのかも知れぬが、此は姑く、昔からの「飼ひこ」として預けて置かう。
 ものを包んで居るのが、かひである。米のことをかひと言うたのは、籾に包まれて居るから言うたので、即、籾がかひなのだが、延いてお米の事にもなつたのである。ちかひ・もゝかひ・しるにもかひにもなどの、用語例で見ると、昔は籾のまゝ食べたのかとも思はれる。籾は吐き出したのであらう。さうでないと、かひの使ひ方が不自然である。
 かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。此がなるの本義である。」

 折口さんは、「蚕にも此意味(たまご)があるのかも知れぬが、此は姑く、昔からの「飼ひこ」として保留しておこうといってるのだが・・・
 
 
 Jumpを読んだらしい桑原君から新しい情報がもたらされた。
「秦氏の祖の弓月君の民で、葛城襲津彦がコリアペニンシュラから葛木地方につれてきた工人4集団についてJump(19)に書いてあったけど、そのなかに桑原もあるんです。それから、ダニーが旅にでるといってた筑紫平野にも三瀦のほかに桑原と大石、鳥飼がありますよ。」

 とすると、桑原氏は秦氏の最も古い一氏族ということになるのだが・・・・
 う~ん・・・頸城平野に色濃い’桑’地名、’長柄’地名への突破口になりそうだ・・・

 
 
 大岩さんは秦氏の一大拠点または発祥の地は同じ北九州でも、豊前宇佐から筑後田川、香春のあたりと書いている。この地域に新羅系「秦王国」があったとしている。
 
 筑前三瀦のあたりは物部の地だ。除福集団は、物部だったのだろうか?秦だったのだろうか?

 桑原君の話は記紀に載ってる話なのだが、大岩さんは、『秦氏の研究』の’秦氏の祀る神々と神社’という章の中で、一番最初に豊前の’香春神社’をあげている。この神社は、おなじく秦氏と縁の深い、宇佐八幡宮の本宮だという。

 香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比咩の三座。その神官は赤染家が二家、鶴賀家が一家という。赤染家は辛人(韓人)で、秦氏の同族らしい。

 鶴賀は北陸の敦賀の気比神社を思い起こさせる。『日本書紀』垂仁天皇二年条に現れる、新羅の王子、都怒我阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐、うしきりありしちかんき)がケヒの浦に上陸した。という地名起源説話のことだ。

 大岩さんは、ツルガには秦氏が居住していて、「白神信仰が盛んな地」であるとし、詳しく「志呂志神社・白鬚神社」の項に書いている。
 
 p「378白鬚神社の秋の大祭(9月5日・6日)には、「なる子まいり」がおこなわれる。誕生年の翌年の幼児(男女とも)が白鬚神社に参詣し、神から名前を授かる神事である。この別名を数日の間本名として使えば無事に生育し、幸福な一生をおくれるといわれている。・・・
 この「なる子まいり」で連想されるのは、建内宿禰が品陀和気命をつれて、近江.若狭を経て越前の角鹿(つぬが)に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中で、伊奢沙和気(いささわけ)大神(気比大神)から神の名を名乗るようにいわれ、名を易(か)えたという『古事記』の伝承である。・・・・・・
 白神信仰の重要な要素である死と再生の観念が、変身という形で、この改名伝承に示されていると考えられる。
 ホムタワケは近江・若桜を巡幸したあと角鹿に仮宮をたててすんだとあるが、仮宮は霜月神楽の「白山」に相当する。死装束をして「白山(しらやま)」に入り、籠りが終わって「白山」から出た人を「神の子」という。品陀和気命が、仮宮に籠っているとき(擬死)に見た夢の啓示で気比大神の神名(いささわけ)に改名したのは、白山儀礼と同じ死と再生の儀礼を意味している。「なる子まいり」で別名を名乗ることによって健康に生育し幸福な生涯を送れるのは、神の子として生まれ変わるからである。「成る子」の「成る」は再生の「ナル」であろう。」

 頸城平野には直江津に居多神社があって敦賀の気比神社と関係が深い。また、頸城には十二神社という祠が多いがその祭神を『中頸城郡史』で見ると品陀和気命であることが多い。
 もちろん白山社も多くその祭神はほぼ菊理比咩である。しかし、『東頸城郡史』によると東頸城の白山神社では別の神々なのだ。

 大岩さんは白日神(しろし、志呂志神)について西田長男さんを引用している。
p372「式神名帳に所載の近江国高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が『志呂志』に転訛したものではなかろうか。即ち、志呂志神社の祭神は、日吉二宮(今の大宮)の神、大山咋神や賀茂別雷神社の祭神、別雷神や兄弟または伯叔父にあてられる白日神で、為に斯く日吉三の宮と呼ばれたのではあるまいか。
 そうして、この志呂志神社は滋賀県小松村大字鵜川に鎮座の白鬚神社、即ちかの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して、『比良神』が『夷(ひな)神』で蕃神の意であろうことはほとんど疑いを納れないであろう」(白鬚神社としての初出は12~300年頃らしい)

 
 僕が、この文に目を止めたのは、鵜川、鴨、白鬚と続いて出てきたからだった。この三つは松代にもある。黒姫山頂の神社は鵜川神社だ。当地の蒲生は、高台にはあるけれど、鵜川、鯖石川、渋海川、保倉川が接近する地点にある。白鬚神社の祭神は猿田彦らしい。

 なんといっても延喜式に出てくる松芋神社がある。松尾神社はもちろん京都太秦にある秦氏と関係浅からぬ社だ。もし秦氏とこの東頸城が関係あるとするなら、松之山に伝わる有名な謡曲『松之山』にも興味が引かれる。秦氏と能楽には浅からぬ因縁があるからだ。

 鵜川については、次のように書かれていた。
p379「このような再生の生命力が「白神」の霊力であり、神威である。
 沖縄では、産屋を「シラ」という。白山(しらやま)としての仮宮は、神の子として再生するための産屋ともいえる。産屋を浜辺に作って鵜の羽で葺いたと『日本書紀』は書くが、白鬚神社の所在地を「鵜川という」」
 
 鯖石のサバについては、折口信夫が
 「精霊に捧げるのを産飯(サバ)と言ふが、」というようなことを書いている。

2009年10月27日 (火)

Jump(19)

 寒いな~冬がやってきた。ここ青トラホテルには世間よりおよそひと月早く季節季節が巡ってくる。特に秋から冬にかけての変わり目の今は気温の変化になれるまで冬を楽しむ心の余裕はない。

 一月の終わりには広葉樹の枯れ葉が完全に落ち、春を感じることができるようになってるだろう。そこまでは冬眠して繰り返す朝と夜と朝の間、エネルギーの訪れを眠りながらキャッチし続けるのだ。


 先月戻ってきた’おでぶ’のおとうさん、ヒーローから連絡があって、「何かいい情報はない?」先日僕が通ってきた富士川を諏訪湖から太平洋まで川下りするという。

 谷川さんや、折口さんを読んでても出てくる有名な逸話だが、今読んでる『秦氏の研究』大和岩雄著にももちろん登場する。折口さんは「養蚕(かひこ)」’かひ’は古代では包むの意味で’卵’の古代語であると書いてて、面白かったりするのだが・・・
 
 p327「蚕に似た『常世虫』と秦河勝・・・・『日本書紀』皇極天皇3年7月の条に『東国(あずまのくに)不尽河の辺の人大生部多(おほふべのおほ)、虫を祭ることを村里の人に勧めて曰く、”此は常世の神なり、此の神を祭るものは、富と寿(いのち)を致す”といふ”とあり、この虫は『養蚕(かいこ)』に似ていたが、人々がこの『常世の虫をとりて、清座(しきゐ)に置きて、歌い儛ひて、福を求めて珍財(たから)を捨』てるので、葛野の秦造河勝、民の惑いはさるるを悪(にくみ)みて大生部多を打つ』と書く。・・・(’富と寿(いのち)を致す’とは、道教の攘災致福と不老長寿にあたる)」

 マッ、今でいうと’幸福の科学’かな?僕的に面白いのは、しかし、大生部多も秦一族だったってことだ。それから、富士山は除福伝説の色濃い土地柄で、泉にちなんだお話があったはずだけど思い出せない。除福伝説は八丈島ににもあってここでの不老長寿の薬はアシタバ。今日の夕餉はアシタバで決まりだなっ。


 少しマジになってしまって本読みし始めると、最終的に結局、ああ嫌だ!と思いつつも『古事記』『日本書紀』あたりに漂着してしまっている。

 古代史の本をひもとくと否が応でも古代神話時代の天孫族の系譜なんぞを目にする機会が多い。

 『秦氏の研究』に載せられた古代天孫族の系譜の中に、履中天皇の妃として黒媛がでてくる。(皇后は草香幡梭皇女)黒媛は葛城一族出身だ。

 黒姫山の黒姫が気になりだしてから黒媛については気にはなるけど、とっかかりがなかった。今日、以前に買ってあってあまりの大著に恐れをなし捨て置かれていた『秦氏の研究』大和岩雄著をめくり始めていた。

 秦氏といえば語呂合わせ的には機氏、幡氏であるから、織り姫伝説や北九州の宇佐八幡とつながるだろうという思いがあったからだ。

 平林さんは古代織物業の様々な工人たちが葛木地方に(古墳時代?)集まっていたとしていた。(森先生によればそれ以前の時代、吉野ヶ里辺りには高度な機織り技術が伝来していたというが・・・)
 そして、この様々な技術者を朝鮮半島から連れてきた人物として葛城襲津彦の名を挙げていた。

 『秦氏の研究』の大岩さんは以下の話(wikkiより)が示すように、秦氏の祖といわれる弓月君と葛城襲津彦が関係深かったということから、葛城臣の始祖葛城襲津彦について詳しく書いている。(なお葛城直氏もあるがこれは葛城臣とは別の系統で土着の民だと大岩さんは書いている)

「誉田天皇 十四年 百済の弓月君(ゆつきのきみ)が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、三年なんの音沙汰もなくなった。

 誉田天皇 十六年八月、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。」

 『日本書紀』は応神・仁徳期をもってようやく史実として認めその前は伝説の時代としている。その16代天皇の仁徳の后は葛城襲津彦の娘の磐之媛だ。

 黒媛は次の履中天皇の妃で、仁徳と磐之媛の娘で、また、襲津彦の子の葦田宿禰の娘でもある。
 大岩さんは
 p55「5世紀の倭王権について、直木孝次郎が、『葛城臣と大王家の両頭政権ではなかったかと思われる』と書くほど、葛城臣は大きな権力を持っていた。その権力は、大王の下で権力を持っていた大伴・物部などの氏族とちがって、大王と同じレベルの権力であったから、大王も葛城臣の女性を皇后にせざるを得なかった。」と書いている。

 p66『日本書紀』では葛城襲津彦についての記述は、ほとんど朝鮮半島との関係に関するもので国内関係の記述はなく、また、
 「『古事記』で葛城長江曽都昆古が登場する、建内宿禰後裔氏族系譜の、波多臣・許勢臣・蘇我臣・平群臣・紀臣らの伝承上の祖は、すべて朝鮮半島との関係伝承をもっているのは、これらの氏族の祖が朝鮮半島の倭人集団の長との関係があったからであろう。したがって建内宿禰後裔氏族系譜では、葛城襲津彦(葛城長江曽都昆古)に結びついた、と推測できる」とかいている。

 大岩さんは葛城襲津彦が朝鮮半島加羅地方の倭人集団長として、大王家と同等もしくは無視できない力を持っていたと考えているらしい。

 
 マッ従って、このjumpでは、黒媛は少なからず葛城の機織り技術者集団や機織りと少なからぬ関係のありそうな秦氏、両方と少なからぬ関係があったかもしれないという推測をしておくことにしよう。

 で、刈羽黒姫山の方なのだが、この夏、平成3年版『松之山町史』を眺めていて、この地にも白鬚信仰というものがあるということを知り、頸城平野から東頸城に抜けるあたり五公野あたりに鎮座する五十猛神あたりとの関係だろうか?と興味を引かれた。

 『秦氏の研究』大和岩雄著には、秦氏の祀る神社と神々として「志呂志神社・白鬚神社」という項目があった。

 次回からは、『秦氏の研究』大和岩雄著にまともに取り組んでみようと思っている。大変そうだなあ〜

 

2009年10月24日 (土)

jump(18)

 柏崎の伯父貴のおかげで復旧した青トラホテルに乗っかってご機嫌な旅、今回は安曇野、諏訪、白洲、身延周りで帰る。途中アサカワさん家の前を通過。

 「どうしてるかな?彼女・・・もう、あの時の赤ちゃんは成人したくらいだ。」

 先日はパープルさんの公演で、ノエラをみかけて「久しぶり!」Hugしたのだが、「あれっ、あっ!お腹おおきかぁないかい?」うろたえてると、暗がりから「やだな〜ダニー、僕たち結婚したんです。」と、オーベルの声「ぎゃっ!・・・オーベル・・だって君・・・ああ・・・深い話はよそう・・・・ともかくおめでとう!」まっ、オーベルは好青年だし・・・しかし一年もあわないと若い娘には何がおこるかわからない。

 僕は、いまさら出会った娘たちのことをおもいだす。「下宿屋のそばの福ノ湯の番台の娘さん、稽古場のベリちゃん、レストランの綾ちゃん、そしてスジー。いつもきまって一年後、偶然街で出会うとおなかが膨らんでた。」

 「馬鹿ねダニー、だって、お相手はみんな女性でしょ。」と、ピンクさんが緑茶をすすりながら笑っている。

 まっ、僕と織り姫、七夕との関わりについては以上のようなことなのだが・・・・・

 ここのところ2週間に一度定期的にピンクさんがよってゆく。昨日は・・「毎日食べなさい」何処からからアロエをたくさん仕入れて持ってきてくれた。
 「今朝は秋晴れで、うきうきしちゃって私の一番お気に入り、上海で買ってきたピンクのベレーかむってでかけようとしたんだけど・・・急にとっても恥ずかしくなっちゃって・・・・ピンクのベレーよしたわ・・」

 2年前若い頃の語学の先生になる夢を捨てきれず、ピンクさんは日本語教師の職を得て上海にでかけた。「中国語わかんなくって、どうやって教えるの?」半年後、やっぱし!傷心の帰国となっていた。

 「上海って、昔は呉の国よ、漢字は一つの文字がいろいろな読み方ができるでしょ。訓読みとか・・呉音ってのがあるでしょ。仏教用語はたいがい呉音ね。
 ・・・コマーシャルなんかで『日本の文化、和服』なんてよく流れるけれど、和服屋さんって言葉はあまり耳にしないでしょ、和服を売ってるのはたいがい呉服屋さんだったわよね。」


 
・・・・『七夕と相撲の古代史』に戻ろう。

 

 宮廷儀礼に先立つ七夕の伝来を伝えているのではないかといわれる歌謡が日本書紀、国譲り神話の葦原中国平定談にでてくる。

「天なるや 弟織女(おとたなばた)の 頸(うな)がせる 玉の御統(みすまる)の 穴玉はや み谷 二渡(ふたわた)らす 味耜高彦根」

 味耜高彦根は、葦原中津国を平定させるために天照大神に派遣され’天の返矢’にあたって亡くなった天稚彦(あめのわかひこ)の葬儀に参列したが、葬儀参列者に天稚彦が(亡くなった天稚彦とそっくりで)生き返ったとまちがわれ激怒し大暴れする。天稚彦の妻で味耜高彦根の妹にあたる下照姫(古事記では高姫)がその乱行をフォローして葬儀の参列者に味耜高彦根を紹介した歌が上の歌だとされる。
 ああ、それから島国の神話に取り込まれた形の七夕では、この天稚彦(あめのわかひこ)は彦星、牽牛としてて現れる。

 僕的には’穴玉’が気になるけれども、平林章仁さんは
 p134「本来はアジスキタカヒコネが天上のオトタナバタを妻問う物語背景とする歌謡であったという理解もされている。・・・私はこの歌謡の背景に、倭葛城におけるアジスキタカヒコネとオトタナバタの神婚説話の存在を想定するが、あるいは本来、シタテルヒメ(タカヒメ)自身がオトタナバタ(敵存在)であったとも考えられる。」と述べている。

 有名な天照大神の天岩戸隠れ神話がある。日食神話、禊起源、新嘗祭など色々の要素を含んでいる神話だが、「機織りの最中に神去った天照大神」として次のように書いている。

 p162「それは弟神スサノヲとアマテラスが天安河をはさんで誓約(うけい)をして神々が誕生した後、弟の乱行に始まり、アマテラスの天岩戸隠れとその前での神々の祭祀、アマテラスの再出発へと展開し・・・・・・・・・・  
 アマテラスの天岩戸隠れはスサノヲの数々の悪行の結果であるが、なかでも決定的原因となったのは、機を織るアマテラスのもとに馬を逆剥にして投げ入れたことであった。 ・・・・これについては若干の違伝があり、神代紀第7段一書第一はアマテラスでなく、神之御服(かみみそ、神衣)を織っていた稚日女尊(わかひるめ)が、投げ入れられた 逆剥の斑駒に驚いて機より落ち、持っていた梭(ひ)で体を痛めて神去ったと記している。また『古事記』にも驚いて梭で陰上(ほと)をついて死んだのは天服織女とあり、アマテラスではない。ワカルヒメはアマテラスのまたの名、大日孁貴(おおひるめのむち)(神代紀第五段)と対になる呼称で、天服織女とともども、太陽神をまつる巫女的性格のアマテラスと同一神格と見てよく、物語の本質は等しい。」


 味耜高彦根だが、『出雲風土記』や『出雲国造神賀詞(かむよごと)』に登場するなど、出雲と関係が深い。しかし、その『出雲風土記』のなかで味耜高彦根は「葛城の賀茂の社に坐ます」とあるように、本拠は倭の葛城地方であり、大和国葛上郡(奈良県御所市鴨神)には、高鴨阿治須岐託彦根命神社がある。

 味耜高彦根が金属工人と関係が深いことは谷川健一さんの『青銅の神々の足跡』や『白鳥伝説』に詳しいが、平林さんも
 p181「おそらくアジスキタカヒコネは本来、神功紀5年3月条に、新羅に派遣された葛城襲津彦が連れ帰った俘の後とある四村の漢人との中の高宮村主や佐糜村主、さらには同じく葛上郡南部を本拠とする今来村主・俾加村主・朝妻手人・朝妻金作など主に渡来系工人集団によって奉斎された神であると見られる。これが後には葛城高鴨の地の中心的な神に成長し、賀茂氏にも奉斎されるようになったのであろう」としている。

 また、味耜高彦根の后の天御梶日女命が多久村にきて多伎都日古命を生んだ。と『出雲国風土記』でていて、梶は木綿(ゆふ)の原料の「殻(かぢ)の木」楮。多久は楮で織った織物の(たえ)に由来すると書いている。


 平林さんがオトタナバタの一人と考える、味耜高彦根の妹のシタテル姫だが、難波にゆかりの深い女神とされる。応神紀のなかで金属神もう一方の雄天之日矛の伝説の中で語られる。
 p183「難波のヒメコソ神社は天之日矛がその後を追って渡来したという赤玉の化した美女、渡来系の女神アカル姫をまつるという。・・・・右の説話で牛が重要な役割を担っているのが興味深い。・・・・・ヒメコソは女神を祀る神社を意味する古語で・・・・東成郡のヒメコソ神社はシタテル姫をまつるが・・・・・アカル姫もシタテル姫も光り輝くという共通の性格であり、その名も同一神格から出た異称であろう。・・・アカテル姫とシタテル姫は海外から渡来した光り輝く玉・石より化した女神を原像とする同様の神格から出た異称であり・・・・」
 
 またこのシタテル姫は葛城の地、大和国葛下郡延喜式内社、長柄神社の祭神でもあった。
 p187「近年、長柄遺跡から5世紀後葉の石垣の壕で囲まれた豪族居館跡と玉造工房や、金属工房の存在を示す遺物が出土したが、そのなかに、(かせ)桛掛、糸枠、布巻き具(または経巻貝)など機織り器具が見られるのは興味深く、長柄で機織りがなされていたことは確かである。

 また、北九州とヒメコソ社と機織り集団の関係については
 p190「さて、話はヒメコソ神に戻るが、先にも述べたように『肥前国風土記』基肄郡姫社郷条の所伝から、肥前国基肄郡姫社郷と筑後国御原郡にもヒメコソの神が祀られていたこと、そのヒメコソの神は宗像神社とも深い関係にあった渡来系の機織りの女神であることなどが明らかになった。またアジスキタカヒコネとシタテル姫の母は宗像の奥津の宮の多紀理昆売命(『記』)であるが、宗像神社自身も、呉から渡来した工女兄媛の受納や織幡神社の鎮座などが示すように、渡来系機織り文化と深い関係にあった。」

 平林さんは、最後の第7章で「葛城倭文(しどり)神社」を取り上げ、七夕の儀礼や物語を広めたのは倭文氏だったのではないかと推察している。また、土師氏と倭文氏のが全国の同じ地域に一緒に分布していることなどを紹介していて、なぜ、野見宿禰と當麻蹶速の相撲は7月7日七夕に行われているのかを解き明かしていく。

2009年10月23日 (金)

Jump(17)

 ようやく『七夕と相撲の古代史』に入る前に・・・
 
 どうやら、トニーからのメールによると、風のミサキはアジアの相撲の起源を調べにカンボジアに出かけたらしかった。カンボジアにはクメール相撲というものがあるらしい。

 僕は、黒姫とミズハノメを追いかけているうち棚機姫に出会ってしまったわけだけれど、列島での相撲の起源と言われる野見宿禰と當麻蹶速の相撲は7月7日七夕に行われている。

 
 jumpの発端となったヘンリクさんの東屋が建てられたのは妻有の当麻(アテマ)高原だった。二ツ屋の古代蓮は、奈良盆地葛城の当麻寺に伝わる中将姫が蓮の糸で織った当摩曼荼羅を思い起こさせる。

 折口信夫の小説『死者の書』では、中将姫がヒロインなのだ。
 中沢新一『古代からきた未来人』筑摩ライブラリー新書は手軽に読める。「死霊は踊る」という単元のなかで・・
 p80「『エジプト死者の書』からの強い影響を感じ取ることができるが、内容はまったく違う。古代エジプトの死者たちが冥界への長い旅を行い、死後の世界での運命を生前なした行為で計られるのとは対照的に、折口信夫がここで描き出そうとした日本列島の古代の死者の霊は、生前になした行為の善悪などはまったく気にしていない。霊には倫理など通用しない、という考えがはっきり表明されている。
 死者の霊はまた、時間の観念を持たない。霊の思考を突き動しているのはただ「類化性能」という無意識の働きだけであって、それを使って、百年も二百年も後の時代の女性を、「似ている」という理由で、自分の恋人と同一視しようとする。・・・・」と書き始めている。


 これは脱線だけど、相撲中興の祖は青トラホテルの根拠地のある伊東市の伝説の人物河津三郎祐安で相手は股野五郎景久、この伊東市で行われた相撲の話は説教節『曽我物語』に出てくるから笑ってしまう。マッ僕のほかで笑ってくれるのはゲーリーくらいのもんだろうけど・・・・

 當麻蹶速は奈良は葛城、當麻の人以外に何もわからないらしい。

 野見宿禰はもう一カ所『日本書紀』に登場するが、それは、埴輪の起源説話として土師の始祖としての登場らしい。土師氏の古い4氏族の居住地の近くには必ず古墳群があることが知られている。

 相撲埴輪なるものがあって葬送と相撲は関係深かったらしい。
 
 土師氏は出雲とも関係が深かった。

 平林さんも古代にミヌマのような信仰あったことを否定しているわけではなく、その信仰が「日本独自の信仰」だとする折口説に反論していること。
p136
「もちろん折口氏が説くように、神聖な水辺で神の妻となる巫女が機を織りながら、寄り来る神を迎えるという神婚説話とそれに関する祭儀が、我が国古代に存在したことは認められる。しかしこれとても我が国独自のものであることが証明されているわけではない。さらにオトタナバタ(たなばたつめ)の棚が、神を迎える巫女が神衣を織るために水辺に架け渡した棚であるかということも再考を要する事柄であり、・・・・」

 
 ああ、桑原君が「・・・だから僕は黒姫山麓に居るんです」胸張ったのだけど、「蚕桑(ひめくわ)」’蚕’を’ヒメ’って読めるなんて知らなかった。
p148
「ちなみに、大和国城下郡の延喜式内社糸井神社は磯機郡川西町結崎の糸井神社に比定されているが、・・・・綾羽・呉羽は『古語拾遺』の言うように衣服のことだが、・・・本来は『大和志料』が述べるように「漢織呉織ノ霊ヲ祭」ったとみられる。なお『新撰姓氏録』大和国諸蕃条に、当社を奉斎したと見られる糸井造が見え、「三宅連と同じき祖。新羅国の人、天日槍命の後なり。」とある。・・・
 当社の西750メートルには・・島の山古墳があり、同古墳の西側には、延喜式内社に比定される比売久波(ひめくわ)神社(川西町唐院)が鎮座する。・・・『大和志料』は「古来桑葉ヲ以テ神体トナスト、シカラバ姫桑ニシテ糸井社ニ縁故ヲ有スルモノナラン」と述べるが、『奈良県の地名』は社名は蚕桑(ひめくわ)を意味すると伝える。」

 
 織女の渡来を記した記事が6カ所ほど『日本書紀』には見えるらしい。’東漢’って’あづまのあや’って読んじゃいそうだ。wikiによれば「阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした」。西漢氏は’河内の漢’と読む。
p142「呉国・百済いずれの渡来伝承にも倭漢(やまとあや、東漢)氏の関与が伝えられること」

 
 北九州関連では
p140「応神紀37年2月、阿知使主らが呉より帰国して筑紫に至った時、胸形大神が工女を求めたので、兄媛を奉献した。今の筑紫国の御使君(みつかひ)の祖である。

p146「雄略紀10年、9月に村狭村主青らが2羽のガチョウを持って呉より帰国し、筑紫に着いた。ところが水間君の犬がこの鵞鳥を噛み殺したので、贖罪に鴻(かり)10羽と鳥飼人を献上した。10月に、この鳥飼人を軽村・磐余(いわれ)村に安置した。」

 
 ここまで書き進んで、突然トピックな情報がもたらされた。
 2009年10月22日県立橿原考古学研究所は奈良県桜井市の桜井茶臼山遺跡(3世紀末〜4世紀はじめ)の60年ぶりの再調査で全面が水銀朱で塗られた石室が発見された。と発表した。推定される水銀の使用量は200キロ!

 
 産経ニュースによれば
「桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。」「和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。
・・・和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。」


 「ヤマトの誕生と神々 三輪山のむかしばなし」田中八郎著 1996年彩流社刊には、奈良三室山(三輪山)を中心に桜井茶臼山古墳あたりの事情が詳しく書かれている。僕も、触発されて 「青トラホテル÷イフターム・ヤー・シムシム!(7)」を書いていてそれはこの「jump」に引き継がれている。

 僕の興味の中心は「なぜ、北九州に根拠地を築いていた物部氏が奈良盆地!なんぞに移動したのだろう?それに続いてなぜ天孫族までがなぜ奈良盆地を目指したんだろう?」という疑問だったといっていい。

 「jump」では北九州のミヌマについて多く語られているけれど、どうやらおぼろげながら、それは「若返りとか生まれ変わりとか生まれる前の世界や現世から旅立った後の世界」をつなぐキーワードの一つに、「jump」を書いている途上で、進化を遂げてきている。

 
 今回のニュウスを聞いて桜井茶臼山古墳についてwikiしてみると、
 「古墳の後円部の空濠の外に宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、さらに社殿があるのは何時のことか分からない。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する」などとでている。

 また、桜井茶臼山古墳のすぐ近くには箸墓古墳古墳(3世紀後半、古墳出現期)があって倭迹迹日百襲姫命の墓だといわれているが、邪馬台国は奈良盆地にあったとする人々は卑弥呼の墓だ。なんてテキトーなことを言ってる。それはともかく今回jump(17)の文脈で言うと、平林章仁さんは、「箸墓は土師墓」ではないか?という語呂合わせをしていて僕にはウケた。桜井茶臼山古墳あたりは野見宿禰を祖とし埴輪製造集団の土師氏の一大居留地でもあったらしい。

 棚機姫に関連する倭文(しどり)一族が居留した葛木地方は桜井茶臼山古墳、箸墓古墳古墳のある奈良盆地西の山裾より竹内街道を西向した、奈良盆地東の山裾にある。

 
 ようやく『七夕と相撲の古代史』について書き始めたのにトピックな話題で長くなってしまった。次回に書き次ぐことにしよう。

 ああ、もうそろそろ帰ってくるはずのカンボジアの風のミサキ、クメール相撲の研究進んでるかなあ〜

2009年10月22日 (木)

Jump(16)

 青トラホテルには持病があって、時々気まぐれを起こしてセルモーターが回らなくなる。先日、ビックストーンの会長さんを東京まで送った時、事情を熟知してる会長さんは「スリル満点です」などと暢気なことを言ってたのだが、トラブルなく彼の自宅前でおろしてほっとしてサービスエリアで食事したのがいけなかった。1時間くらいすったもんだでようやく青トラホテルのご機嫌がなおったことがあった。

 このことがトラウマ、どうやら伏線になってたらしい。僕の思いの中に、青トラ君このごろ相当機嫌が悪いという思い込みがまずあったのだ。

 青トラホテル生みの親’工場長’にもアドバイスを乞うたけれど、いっこにうに青トラホテルの機嫌ははなおらない。しかし幸いに機嫌が悪くなった場所が見附の伯父貴の葬儀に参列した柏崎の伯父貴を送り終わった伯父貴の家の前だったので、助かった。

 整備工場で若いときから叩き上げの技術者とはとてもおもえない’工場長’の最後のアドバイスは「朝一、青トラホテルの機嫌が悪かったことはないだろ?」したり!その言葉に納得してしまう僕「うん、確かに!」朝を待つことにしたのだ。

 僕らが子供の頃は、好きな山登りの話や、柏崎の昔話をよくしてくれた伯父貴だったが、ゆっくり話すチャンスもない月日が長く流れいた。

 「ダニー、頸城平野を取り巻くように三つの黒姫山があると言い出したのは笹川のおじさんだよ。亡くなる前の最後のお仕事だったんだ」

 笹川のおじさんは教育者で柏崎市史の編纂にも携わっている。うちの母の恩人でもある。(ああ、柏崎の叔父貴は母の長兄、見附の伯父貴は母の姉の旦那さんにあたる。)母の机の上には今でも笹川のおじさんの遺影が乗っかってるくらいで・・・

 僕の頭の中にいつしか住み着いていた黒姫は、多分、笹川のおじさんが亡くなった時、今柏崎の伯父貴から聞いた同じ話を母がしていたのを聞いたときが最初だったに違いない。

 今ではまったくそんな記憶はなくなってしまっていた。
 
 笹川のおじさんの書いたものは読まなくてはならない。

 柏崎の伯父貴の本棚を眺めていると『岡野町町史』があった。伯父貴に、「僕の考えでは岡野町の’岡’は罔象女(ミズハノメ)からきてるとおもう。」自説を自慢しながらパラリめくってみる。

 ぼくはこの「jump」の最初の頃さんざん「刈羽の黒姫山にある黒姫社の祭神はミズハノメ」のようなことを書いてきたが、刈羽の黒姫山にあるのは鵜川社だった。訂正しておこう。なお刈羽には鵜川社はほかにも何社かかぞえることができるらしい。これについても調べなければ・・・刈羽には西山町に延喜式に出てくる物部神社があるのだから・・・・

 ああ、見附の伯父貴の旅立ちと青トラホテルの不機嫌によって貴重な時間を得、いくつかの話が聞けた。柏崎の伯父貴が話してくれた見附の伯父とおばの出会いに関するお話を書きとどめておこう。

 見附の伯父はビジネスマンとしてかなり成功した人で、5〜6人ではじめた会社をその分野で列島ナンバーワンの会社に育て上げた人だった。しかし会社に入る前、戦後の一時期教員をしていて、そこで伯母と知り合った。結婚することになり伯母の親族にあってみると、伯母の母親(ばあさん)は伯父の小学校のときの先生で、伯母の妹(うちの母)は伯父の教え子だった。

 それは、長岡が終戦直前、(山本五十六の生まれ故郷だったからだと言われている)焼夷弾による大空襲を受けて、一家が栃尾に疎開したときのことだったらしい。

 栃尾は先日行ったばかりだ。もう一度出かけて守門岳の麓にあると言われている栃尾の黒姫山を確定させなければならない。

 
 ・・・翌朝工場長のアドバイスを受けて、伯父貴と2人でもう一度、修理屋さんを呼ぶ前に、挑戦することにした。運転席を見たとたん、免許を持ってないはずの叔父貴が「レバーがドライブに入ったまんまだけど、これでエンジンかけたら走り出しちゃうんじゃないのか?ダニー・・・」

 僕は、照れ隠しに頭をかきながらそっとレバーをパーキングに入れ直し・・・少し間を置いてキーをまわす。一発始動。

 事情が飲み込めてない伯父貴は、「さすが工場長のおまじないはすごいね」と感心しきり。声には出さなかったけど「おじさんアドバイスしてくれたのはおじさんだよ」

 「ほうっとする程長い白浜の先は、また目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自(オノ)づと伸(ノ)し上る様になつて、頭の上まで拡がつて来てゐる空だ。其が又、ふり顧(カヘ)ると、地平をくぎる山の外線の、立ち塞つてゐる処まで続いてゐる。四顧俯仰して目に入るものは、此だけである。日が照る程風の吹くほど、寂しい天地であつた。さうした無聊な目を(ミハ)らせる物は、忘れた時分にひよつくりと、波と空との間から生れて来る――誇張なしに――鳥と紛れさうな刳(ク)り舟の姿である。遠目には磯の岩かと思はれる家の屋根が、ひとかたまりづゝ、ぽっつりと置き忘られてゐる。琉球の島々には、行つても/\、こんな島ばかりが多かつた。
我々の血の本筋になつた先祖は、多分かうした島の生活を経て来たものと思はれる。だから、此国土の上の生活が始つても、まだ万葉人(マンネフビト)までは、生の空虚を叫ばなかつた。「つれ/″\」「さう/″\しさ」其が全内容になつてゐた、祖先の生活であつたのだ。こんなのが、人間の一生だと思ひつめて疑はなかつた。又さうした考へで、ちよつと見当の立たない程長い国家以前の、先祖の邑落の生活が続けられて来たのには、大きに謂はれがある。去年も今年も、又来年も、恐らくは死ぬる日まで繰り返される生活が、此だと考へ出した日には、たまるまい。」

 というのは折口信夫の『若水の話』の冒頭の部分。ああ、当ブログ「青空コレクション」という意味合いもあるので、その一つとしてあげておく。「変若水(おちみず)」という言葉などから多分「ミヌマ」を探っている文だと思う。短い文なので読んでみると面白いかもしれない。

 折口さんの文をどうして長々と抜き書きできるかというと、折口さんの文章はかなりの分量ネット上の「青空文庫」でTEXT化されていて読めるからだ。『水の女』も『若水の話』ももちろん読める。


2009年10月20日 (火)

jump(15)

トニーからのメール。
「ヤー、風のミサキからはその後、連絡あったかい?
 僕の方はモロ平投資クラブの東欧行きがようやく確定した。モロ平がこのごろ少し相場が戻ったのに気を良くして資金を提供してくれる。    渋々だけれどね・・・
 リーマンブラザースの破綻以来、それぞれの国が一致して超低金利政策をとって市場にお金をジャブジャブにしたので世の中は少し平静を取り戻したかのように見える。
 いまは転換点だ、投機屋さんはジャブジャブ資金を商品取引に向け始めている。各国は利上げの方向に転換しようとしているし、中国だけはは下落するドル(世界基軸通貨の地位から滑り落ちつつあることをこのごろの金の高騰が教えてくれている)に連動させ人民元安を維持しているけれど、世界景気の回復のキーマンは中国なので、つい先日までのようには非難されない。状況は20世紀末のタイバーツ危機(中国の人民元切り下げをきっかけにしたアジア通貨危機)ににてきていると言われている。
 あとはトリーガが引かれればひどい混乱がおこりそうだ。しかしそこまでには少し間があって、市場には借り手のない資金はジャブジャブだからしばらくは株式相場は高くなっていく、問題はその後だとモロ平は考えてるみたいなんだ。
 今度の危機は、どこを発端としておこるんだろう?まっ、モロ平と僕は、それは東欧からだろうと思ってる。

 僕は旅行の前に健康診断にいくことにしたよ。君も健康状態についてぐずぐず書いてるけど、早めに出かけた方がいいんじゃない。」

 じつは、ぼくは今、また新潟に居る。トリエンナーレが終わってはや2度目。見附の叔父貴が亡くなったのだ。葬儀は終わったのだが、今度は青トラホテルが動かなくなってしまった。物入りで筑紫平野行きは大幅に延期せざるを得ない。とりあえず漂流生活・・・・

 『七夕と相撲の古代史』にすすむ導入として、もう二つ三つ『水の女』から引用しておこう。


「思うに、みつはの中にも、稚みつはと呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、その世話をする。この神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したという古い説明が伝わらなくなったのかも知れぬ。とにかく、この女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷うしぐさをした後、中つ瀬の適(ヨロ)しい処に水浴をする。このふるまいを見習うて禊ぎの処を定めたらしい。これが久しく意義不明のまま繰返され、みぬまとしての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。それがしだいに合理化して、水辺祓除のかいぞえに中臣女のような為事をするようになり、そのことに関した呪詞の文句がいよいよ無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗(ねじ)れさせてきた。」

 ’天の羽衣’が古くは小さな布切れだったのではないかという。羽衣伝説が入る前の姿があって、それはミヌマに関係していると・・・

 「私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。その神の威力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神をやや忘れるようになる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣のごときは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則(のっと)る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘(かかわ)って、上体をも掩(おお)うものとなったらしいが、古くはもっと小さきものではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐(ゆあ)みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。」

 「天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入るためにつけ易(か)えるものではなかった。湯水の中でも、纏(まと)うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のための呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、外からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。この物忌みの後、水に入り、変若(ヲチ)返って、神となりきるのである。だから、天の羽衣は、神其物(カムナガラ)の生活の間には、不要なので、これをとり匿(かく)されて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁となる。おそらく湯棚・湯桁は、この神事のために、設けはじめたのだろう。」

 折口のいう’湯棚・湯桁’という言葉について、七夕(棚機)が中国から伝来する前にあったという「日本独自の」風俗については、『七夕と相撲の古代史』の著者平林さんは明解に否定している。

2009年10月18日 (日)

Jump(14)

 夢の中の会話かと思ってたら、やっぱし、明日はパープルさん久しぶりの公演の付き添いをすることになっていたようだ。電話すると、「そうよあなた朝迎えにいきますって確かに言ったわよ。エティ氏のバック幕使うことにしたから運んでちょうだいね」夢ではそんな面倒なコトなかったのに・・・・一応久しぶりに髪でも洗って(ああ、ぼくにとってはたいへんな決意のいることで朝から髪洗うぞと念じていないとおぼつかない)など考えながらお茶してると、まさにそのエティ氏から電話がかかってきた。

 「ヘッ、今こちらから電話しようかと思ってたんです。・・・すぐに伺います」御用事は、今製作中の絵画の移動だったが、というより、しばらく奥様が留守されてるらしく、話し相手が欲しかったってなトコだったらしい。

 「画家にとっていま描こうとしてる絵はどうしたって自分の正面にあるでしょ。キャンバスを背中に置いても向き直んないと描けないよね。そこんところをね・・・なんとか・・・・例えばこの絵の中心に何もない空間があるでしょ、その空間の両側に描かれてるものがね、コゥ絵の中心から外へ途方もなない限りない微妙な弧を描いてひろがっていくとね、もし宇宙にわずかなゆがみがあるとしたら、ここ、僕の背中、ここにくる訳よね。」

 宇宙を一周りしてまさに自身の背後でせめぎあってる空間を後ろを向くのではなく目の前のカンバスの中にとらえようってことなのか?

 かなわない!いまだにそんなこと考えてるなんて・・・・・僕は出がけに今日こそエティ氏が若いときに、なぜあんなに執拗にフイゴを作っていたのか?質問しようと心に決めて出かけたのだが、とても質問できなくなってしまった。

 女心と何とやら、エティ氏宅から戻ると再びパープルさんからの電話。あっさり「エティ氏の大幕はよすことにしたわ、あの幕は存在感ありすぎて、たくさんの方が出演なさるのに私だけの舞台みたいになっちゃうでしょ。それで・・・何も持たないのも寂しいからフイゴを持ってくことにしたわ・・・」パープルさん伝説の舞台で小さなフィゴが使われている。しかし何というシンクロ!

 だらだら書き綴ってきて、多少僕自身の中でも混乱し始めているので羅針盤代わりに書いておこう。

 どうやら風の’ミサキ’が自分のご先祖かもしれないと思い込んでいるらしい、黒姫の正体は何なんだろう?少なくとも、ここまでの調査でわかったのは、黒姫には三つ四つの要素がはっきり認められること。

 (1)水との関連(2)海民との関連(3)産鉄との関連(4)織物との関連

 一見、時代時代の推移要請に応えてこれらの要素を何処かから持ってきて取り込んできたかのように見えるのだが、じつは最初にこの地方に移り住んできた主力部族がすでにすべてのものをアマルガム的に含んでいたのではないかということ・・・
(網野喜彦『東と西の語る日本の歴史』によれば、越後に課せられた租税の検討から、中世では綿と米が主であり、とすると、意外に米が主力の税の徴収は近世以降となる。)
 
 ’最初に移り住んできた部族’と書いたが、最初に移り住んだ部族がこの地に到着した時、既にこの地で生きていた人々との関係はいかに?

 ’既にこの地で生きていた人々’って、列島のネイティブな人々ほどの意か?そんな人々、列島「固有の信仰を持った人々」がほんとうに居ただろうか?

 島国は所詮ユーラシアのブラインドアレー、行き止まりで吹きだまりなんじゃないだろうか?
 様々な事情、太陽信仰を持って日が昇る方向を目指しているうちにこの列島に到達してしまったとか、コリア半島や揚子江流域あたりで国家が崩壊してその王族が職能集団を率いて放浪の末たどり着いたとか、魚を追っているうちによい漁場がたくさんある島々を偶然見つけてしまって一族を呼び寄せたとか、今の北の将軍様の国から逃れ出る人々と同じに棄民と仕して漂流の末偶然海流にのって漂着したとか、除福集団のように強大な王国からある目的を持たされて派遣されたとか・・・

 長い時間をかけてそれぞれの集団が澱のように積み重なったり、混じったり混ざらなかったり・・・・

 「日本の民間伝承は何でも、固有の信仰の変態だと説きたがる私の癖」と折口自身以下に述べているが自分の癖を知り尽くしている人物は良き人なのだ。ぼくにはどうも折口さんは天孫族が入り込んでくる以前にあった言葉なり信仰なりを取り扱っていると思えるのだが・・・

 折口信夫は『若水の話』のなかで、折口自身が若い頃著わした『万葉集辞典』に「変若水」(おちみづ)について
「変若水の思想は、其等帰化人の将来した信仰が拡つたものであらうと言ふ仮説を立てゝゐた。ちようど神仙説の盛んに行はれ、仙術修行に執心する者の多かつた時代の事だから、と言ふので、不老不死泉の変形だらうと感じたことを書いた。」ところがそのことについて、こともあろうにネフスキイさんから批判されたとして次のように書いている。

 「言ふまでもなく、日本の正月の若水だ。かうした信仰の残つてゐる以上は、支那起原説はあぶない。此、日本人の細かい感情の隈まで知つた異人は、日本の民間伝承は何でも、固有の信仰の変態だと説きたがる私の癖を知り過ぎてゐた。極めて稀に、うつかり発表した外来起原説を嗤ふ事が、強情な国粋家の心魂に徹する効果をあげる事を知つてゐた。さうして皮肉らしい笑ひで、私を見た。さういふ茶目吉さんだつた。」
 

 折口信夫はそういう傾向のある人だと心に留め置きながら、黒姫と’風のミサキ’の関係を探るためにもう少し折口信夫の力を借りてミヌマについてみてみよう。

 『水の女』の中で、
 宮廷の大祓式の祝詞より「出雲国造の奏寿のために上京する際の禊は、『出雲風土記』の記述によると、わりに古い型を守っていたものとみてよい。」と書き、それは、「宮廷の行事にない’みぬま’に絡んだ部分」にあらわれるていると述べいる。
 「大祓詞および節折(ヨオ)りの呪詞の秘密の部分として、発表せられないでいたのかもしれない」が、’みぬま’は相当古い時代にすでに禊に関する言葉という以外意味が忘れられしまっていた。が、じつは’みぬま’は神名であるとう。

 
 「”三津郷・・・・大穴持命の御子、阿遅須枳高日命・・・・大神夢に願ぎて給わく’御子の哭く由を告れ’と夢に願まししかば、夢に、御子の辞通ふと見ましき。かれ寤(さめ)て問ひ給ひしかば、爾時に「御津(みあさき)」と申しき。その時何処を然言ふと問いしかば、即、御祖の前を立去於坐して、石川をわたり、坂の上に至り留まり、此処と申しき。その時、その津の水沼於而(ミヌマ神出て)、御身沐浴ぎ坐しき、故に、国造の神吉事奏して朝廷に参向ふ時、その水沼出而用ゐはじむるなり。・・・・”」と『出雲国風土記』に記されているが、
 
 「・・・禊の習慣の由来として、’みぬま’の出現をまず言う条があり、実際にも、’みぬま’がはたらいたものとみられる。」 と解説している。


 折口信夫が筑紫の水沼氏についてかたっているところはで、ミヌマ神信仰は宗像信仰より古いらしい。(天の真名井でのアマテラスとスサノオのウケイの際アマテラスがスサノヲの剣を砕いて口に含みはきだした水、’禊’から宗像3女神は生まれている。)

 そして、この’水沼’は『出雲風土記』仁多郷にもう一カ所出てくるという。

 ここには谷川健一『青銅の神の足跡』に、そのもう一つの部分と思われる意訳が出ているので書き留めよう。

 「アジスキタカヒコはそのひげが長く伸びくる年頃まで、夜昼なきとおして、言葉をしゃべることができなかった。そこで(父である大穴持命)はアジスキタカヒコを船に乗せて数多くの島を巡ってあやしてみたが、いっこうに泣き止まなかった。そしてついに出雲国仁多郡の三沢にとどまったという。・・『出雲国風土記』はさらにつづけて今日でも妊婦はこの三沢の村の稲を食わない。もし食うものがあると生まれた子は物を言わないからだ、と記している。
 この最後のくだりは、先に述べた水沢(すいさわ)のはなしとまったくおなじである。」p156

 ’この最後のくだり’というのは、伊吹山で大蛇に苦しめられ遭難したヤマトタケルが伊勢の能煩野で死ぬまでの最後にたどった足取りのことをさす。谷川さんは鉱毒と結びつけてこの足取りを追っている。(久しぶりに読み返して今は、かろうじて伊吹山から下山たタケルが一息ついた関ヶ原の玉にある泉と、水沢という地名が気になる)

 ここまで、(1)水との関連(2)海民との関連(3)産鉄との関連、が少し浮かび上がるのだが(4)織物との関連については・・・
次回、平林章仁『七夕と相撲の古代史』によって調べていくことにする。

2009年10月14日 (水)

jump(13)

 連休明けの今朝はすがすがしい秋晴れ。なのに僕はといえば、「仕事に来ないの?」地元のプリンセスMさんからの要請を体調不良を言い訳に断った。
 布団の中でバナナを一本食べた後、湯を沸かして煎茶を準備、午前中はタバコを我慢して、布団の中で大福餅を3個食いながら、平林章仁『七夕と相撲の古代史』を読んでいた。

 どうしても、カンボジアへ去った風のミサキが残した言葉、「ミヅハノメは七夕の織り姫でもあるのよ」という言葉が気になるからだ。

 旧東頸城には、黒姫社や奴奈川社と並んで、棚機社が存在した。大正12年刊の『東頸城郡史』には、大倉山山頂に往古あって当時は仁上字天上畑に遷座されていた棚機神社と、大島村大字牛ヶ鼻字籠田にも棚機社が記載されている。

 折口信夫は『水の女』の中で三瀦「古代記録の無力の時代には、もっと音位が自由に動いていた」として「みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめ」と変化する可能性をあげている。

 つづけて「地名になったのは、さらに略した、みぬ・みつ・ひぬ、などがあり、また、つ・ぬ、を領格の助辞とみての切り棄てた、みま・みめ・ひめ、などの郡郷の称号ができている。」と書いている。

 最後のところにようやく、<ひめ>がでてきてるけれど、そんなわけで、黒姫や奴奈川姫や棚機姫の<ひめ>はそれだけでミヅハノメをあらわしているといえるかもしれない。


 折口信夫は『水の女』の中でタナバタツメについて、中国から七夕の風習が入ってくる前にそれが簡単に受容できるための素地があったと、以下のように述べている。
「 ゆかはの前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択んだようである。そこにゆかはだな(湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒(せいじょかい)を受けた後は、皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女(エヲトメ)が、このたな作りの建て物に住んで、神のおとずれを待っている。これが物見やぐら造りのをさずき(また、さじき)、懸崖(カケ)造りなのをたなと言うたらしい。こうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神の生け贄(にえ)といった型に入る。来るべき神のために機(はた)を構えて、布を織っていた。」

 この説は平林章仁『七夕と相撲の古代史』では否定されているのだがともかく・・・

 
 で、水沼訪問を前に筑紫平野の地名を吉田東伍の『大日本地名辞書』あたりで探っていると、当地の姫古曾神社というのが目についた。

 佐賀県鳥栖市姫方町姫方にあり、この神社のホームページには
「『肥前風土記』にも記された古社で、その物語の中で夢占いに登場する織女神(七夕神)が当社の原初神でした。現在は宗像三女神のひとり、市杵島姫を主祭神としています。」とある。
  天本孝志『筑紫の山の伝説』によれば、この由来は『肥前国風土記』の墓肄(きい)郡姫社(ひめこそ)の郷の条に見えるらしく、物部氏と関連づけて語られているらしい。
 そこにもう一つ福岡県の小郡市大崎にいまでは通称「たなばたさま」と呼ばれている媛社(ひめこそ)神社がでてくる。祭神は媛社神と織女神である。この神社の、嘉永七年(1854)に奉納された石鳥居の額には、磐船神社と棚機(たなばた)神社の名が併記されている。

 比売許曽神社は摂津の国にもある。大阪市東成区東小橋。祭神は阿加流比売神(今は下照比賣命)。社伝によると
「新羅国の王子・天之日矛(アメノヒホコ)の妻で、夫の横暴から逃れて渡来した女神・赤留比売(アカルヒメ)が留まった“難波の比売許曽神社”(古事記・応神記、日本書紀では垂仁紀にあり)が当社だという。・・祀られている主祭神は、新羅渡来の女神・アカルヒメではなく、記紀神話の国つ神・下照比咩(シタテルヒメ)となっている。」らしい。
 シタテル姫は、オオクニヌシ神が宗像3女神のうち沖つ島に鎮まるタキリヒメ命を妻として生んだ子、アジスキタカヒコネの妹で「国ゆずりの神話」際にも登場する。
 
 ともかく、シタテル姫に関連する2人アメノヒボコとアジスキタカヒコは、古代産鉄民を語る上で主役級の2人なのだ。

 桑原君登場。今回のトリエンナーレで、チャーリーさんに「つかえねぇなあ~」などとしかられながらめげずにニコニコしてる若者とお友達になった。
 話してみると、どうも僕と同郷であるらしく、生い立ちもちょっと似てるらしく、気安く、つい僕の悪い癖が出ててしまう。
「桑原さんの桑だけど、僕的にはクワは鍬だから産鉄民として読み解くことになるんだ。桑原という地名があって、桑は鉱物の鉱脈、原は胎で、何かを生み出す源みたいなことになるんだよね。で、桑野って地名もある。桑野の野は、原と普通は同じような意味でしょ、野原とか・・でも野といってるからには、何か微妙な違いがないんだろうか?というのがこのごろ気になることで・・・こういう空想は吉田東伍の影響かな。」
 
 「でも、すなおに考えたらクワは養蚕とか機織りとかに関係があるような気がするんです。原は胎、子宮だっておもしろいです。’腸(ハラワタ)’って言葉もありますよね。ハラワタってなんだか青虫に似ているし・・・」
 
 「ワタって海(産み)の神、綿津見のワタでもあるんだけれど、ワタ(腸)が青虫に似てる!考えたことなかったなあ~そういえば’腸(チョウ)’語呂合わせすると’蝶’だったりするものなあ~蝶は、桑の葉→青虫→さなぎ→蝶。変成とか生まれ変わり不死に通じるよね。」
 
 「ダニー、やっぱり桑は養蚕です。だから僕はきっと、今、黒姫山の麓に居るんです。」

2009年10月11日 (日)

Jump(12)

 青トラホテルに戻ってもうひと月になるというのに、その間僕はほとんどベットの中でまどろんでたような気がする。

 夢の中で、本家大本のミサキ様からは「5ひきの子豚とチャールストン」についてのご質問があったり、お父さん探しにニライカナイに出かけてそのまま行方不明のビーダラちゃんからは「恋には相手がいるんだからね、いつものダニーの妄想世界から早く抜け出しなさい」としかられてみたり、3ヶ月音信不通だったモロ平からは「トニーのいってたこともまんざら外れてはなかったがな・・如何せん・・お前どこに消えてたんだ?」とのんきな、しかし落ち着きを取り戻したようなテレビ電話がきたり、パープルさんからも、たしか今月16日横浜で久しぶりに踊るから付き添いお願いね、と要請があったような気もする・・・インドネシアのトモちゃんがテレパシーでスリさんが旅立ったといってたような気もする。

 ともかく、先月の月終わりに青トラホテル16匹の犬族最後の2匹の生き残りだったオデブがとうとうニライカナイに出発したいと言い出し、長く長くオデブの保護者であるヒーローに伴われて帰還した。

 その晩は久しぶりにオデブの出発を祝って一晩「復刻版うまか棒」と柿の種をつまみに飲んだのだが、ヒーローにサンカ研究の本を「お土産だよ」といって渡された。そのなかに「非差別民に深い関心を寄せた6人の碩学」という項目があって、南方熊楠、鳥居龍蔵、喜田貞吉、柳田国夫、折口信夫の名が挙がってたが、その第一等は吉田東伍だった。

 東伍について越後安田町の人という以外に何も知らない僕にとってトピックなことが2つ書いてあった。一つは明治時代に北海道で暮らしたことがあったこと、もう一つは、大日本地名辞書全11巻を13年かかって独力で出版した後「世阿弥伝書の発掘に力を尽くして、『世阿弥十六部集』を校注して近代能楽研究の出発点を築いた。」単なる遊行民と思われて著述などないと思われていた世阿弥に『申楽談儀』や『花伝書』などの著述があったと初めて世に知らしめたらしい。

 

 9月12日大雨の予報を前に急遽屋外から切り替えて松之山体育館で舞踏能と銘打ち「精霊の王〜松之山生業の事始め」が森繁哉(南山座)、里山ダンス事務所、東北芸術工科大学コンテンポラリーダンス研究所によって行われた。

 この出し物の準備から始まって2009妻有トリエンナーレを締めくくるイベントのために3日間ブッ通しで準備にあたったステージスタッフ働きぶりには、ボランティアーというものを冷ややかにみている僕のようなものでさえおどろかされた。

 チラシによればこの作品は森さんが10年間松之山のそこかしこで踊ってきた集大成だというし、テキストは中沢新一『精霊の王』ということで興味深かった。『精霊の王』は能の金春家に伝わる奥義『明宿集』のテキストが現代文に全訳されていて、僕も以前読んでいて「青トラホテル÷イフタム・ヤー・シムシム!」を書いていた。森さんたちのこの舞台は多分シリーズ化されて続きそうなのでいつかまたみてみたい。

 体育館を埋め尽くした「精霊の王~松之山生業の事始め」の観客が終演後外に出ると、ビックストーングループが仕切った「越後妻有精霊送り」が銅鐸の音の渦巻く中、松聖先導のもとはじまっている。そこに森さんの舞、鬼太鼓座などが加わる。

 そして夜通しの撤収と翌日農舞台での閉会式準備、本番。こへび隊の解散式は夜中まで続いたらしい。

 ぼくは、トリエンナーレ終了日の次の日、はるばるヘンリクさんのための東屋を解体しにやってきたジョニーとレーニーとこの旅の振り出しに戻って二ツ屋の古代池に宿泊した。ダイダラ君が去った山の中腹に開いた大穴、古代池には既にピンクの蓮の花はおろか蓮そのものも全くみることができなかった。

 池を眺めなながら、レーニがいうことには「どちらかというと今回、大穴はダニーの心の大穴のほうだね・・・」・・・・・


 そうそう・・・それで・・昨日もベットでまどろんでたのだが、中国から傷心の帰国を果たしたという風の噂以来2年間音信不通だったピンクさんが、目を覚ますとベットの傍らにキンモクセイの小枝のブーケを持って立っていた。

 驚いたけれど、「ダニー、パラダイムっていう言葉があるでしょ、あれどういう意味なの?」と2年ぶりの再会を果たした開口一番、切り出すところなんか昔のピンクさんに戻ってたなあ~

 それから、マロさんに「ピンキー、実は俺このごろウンチがな〜ミミズみたいなんだぁ〜」とうちあけられたが、じつはそのときマロさんは既には大腸ガンだったという20年前の話がつづき・・・

 それから、「私ね、東西南北ってあるでしょ、あれがね、どうも混乱するのよ。どうしてって、私が北を向くと、富士山は北だからこっちよねぇ(と窓から見える富士山を指差す)、そうすると、右手が東でしょ、だからあんたは、今私の後ろに立ってるから、南に居るのよね。でね、でも、あなたと、私の間の空間が、ほらここにあるでしょ、この空間は、私にとっては南でしょ、でも私の後ろに立ってるあなたにとっては北になるワケよね、そこが、私、どうしてもわかんなくって・・・」

 天涯孤独、無一文のピンクさんの現在の最大の悩みがこれだと知った僕に多少元気が湧き出てこないでもなかったのだ。

2009年10月10日 (土)

jump(11)

「心配しないで・・・この青空はづっと遠くまで続いていてその空をあなたも見上げてる。そう思えるから・・私はもう大丈夫」と言い放って女は海外へ旅立った。昨日ぼんやり眺めてたテレビドラマのラストシーン。トニーにも同じような別れがあったかどうか定かではないけれど・・・
 

 今書いてる『jump』、現実の事態の進行にとても記録の方が追いつかない。お話は少し前後する。

 トニーによれば彼女は遠くカンボジアに飛んでってしまったらしい。まったく・・・・・・・

 吉野ヶ里遺跡や邪馬台国論争については、意識的にさけて通っていた。というよりか、北九州というとどうしても太宰府や博多、玄界灘地方を思い起こしてしまって、佐賀平野というのがピンとこなかった。

 今回訪れることになる、おおざっぱにゆうと筑後川右岸(福岡県)と吉野ケ里遺跡のある筑後川左岸、佐賀平野を一緒にして、筑紫平野全体という構図を想像できなかっただけなのだが・・・
 
 とりあえず、手元にあった森浩一先生の『古代史津々浦々』読んでみることにした。

 吉野ケ里遺跡が発見された当時のことが書いてあって、一般公開された1982年2月23日から5月の連休明けまでの間に100万人が押しかけたらしい(一年では300万人)。妻有トリエンナーレの入場者は40万人くらいだと聞いて驚いてたのだが、今年の妻有の混雑状況にくらべてみるとこれは途方もない数字だ。

 また、この遺跡が偶然発見されたのではなく、長年にわたる民間の研究者の地道な調査をもとにして、広域にわたるトレンチ調査が行われたこと(おいしそうな局部だけでなく)が50ヘクタールにわたる環濠集落遺構?の発見保存につながったことが書かれていた。森先生はやっぱしいいなあ。


 筑紫平野からは有明海を通って沖縄や中国にいけるだけでなく、筑後川水系をたどってゆけば、日田盆地に出(1988年小迫原遺跡が発掘された)、そこから大分川を東におりたところが大分県の海部郡(佐賀関、佐伯、津久見、臼杵あたり)になる。瀬戸内海を通って大和や東国にいける。ここのところが川筋をたどっても行き止まりになる玄界灘沿岸の平野と少し違うところだと書かれている。

 
 ご本が書かれた1989年の発掘段階では、吉野ケ里遺跡の周囲の低地からは水田跡は発掘されていないことから、(簡単に調べられるところでは現在のwikiにも水田跡発掘に関する言及はない。)
「米を作って自給自足した農村というより、物資の集積、金属器や織物の生産さらに交易で成り立っていた小都市、と考えた方がいい。一辺だけで1キロもある外壕が、仮にこれが3世紀の中頃まであったとしても、約300年続いたことになる。」
と森先生は推測している。

 僕ら子供の時代には、教科書に「近畿の銅鐸文化圏に対して北九州の銅剣銅矛文化圏」のような記載があったが、鳥栖の長安田遺跡から古い型の銅鐸の鋳型が発見され、いずれ北九州でも銅鐸が発掘されるだろうと予測されていたが、まさに1989年吉野ケ里遺跡で発掘され、その鋳型で福田型鋳型といわれているものも、佐賀や福岡県で発見されていること。僕ら子供の頃の常識は崩れているようだ。
 
 魏志倭人伝には3世紀(卑弥呼の時代)の島国のことがほか世紀に比べて突出して詳しく書かれていること。「その描写が、どうも吉野ケ里遺跡とあう部分がある」として、『倭人伝』の「倭人の社会では桑を植えて、蚕を飼い、絹織物を作っている」という一文と、吉野ヶ里から発掘された絹織物を例としてあげている。弥生遺跡で絹織物が出るのは北九州の遺跡だけだという。

 それから除福伝説についても触れられていて那智(新宮)や丹後(伊根町)それから僕の地元、富士山や八丈島、遠くは津軽にも伝わってるらしいのだが、それらとと並んで吉野ヶ里の一帯は古くから除福信仰の色濃い地方だという。その本拠は諸富町の金立山だという。

 この話はもともと司馬遷の『史記』に出ていて、除福という方士が秦の始皇帝に不老不死の薬が東の海の中にあると入知恵して、数千人の童男童女、様々な穀物の種、百工といわれるあらゆる技術者のせてを出航させた。中国では史実として扱われてるらしい。

 僕なんぞにとっては、天孫族に先行して物部族がなぜ筑紫平野から中央構造線沿いに奈良盆地を目指したのか?という疑問につながるお話なのでなかなかに興味深い。なぜなら中国では水銀は不老不死の最高の薬だと信じられていたし、中央構造線と古代奈良盆地の南は辰砂の一大産地だから・・そしてそのとどのつまりが、妻有から上州の吾妻だったのかもしれない。・・・少し話を急ぎすぎたようだ・・・

 それに今の僕の切実な関心事、三瀦の泉の「若水」信仰、(不死や生まれ変わり若返り信仰)とも関連があるに違いない。

 「今回の筑紫の旅の間に若水の秘密を解き明かして、5歳若返ってみせる」青空を見上げて、僕は小声でつぶやく。

 「5歳若返る?どうせなら生まれ変われば?」風の中に容赦のないトニーとモロ平の笑い声。

(注)今回、長々と森浩一著『古代津々浦々』を翻案したような文になってしまっている。森先生はどこかで「私の書いた文で5年以上前のものは信用しないでほしい」のようなことを書いておられ、かっこいいなと思わされたのが、このご本は20年くらい前の本である。

2009年10月 4日 (日)

jump(10)

 トニーたちは、僕がビックストーングループ有志の宿にお邪魔して飲んでるところにやってきた。ああ・・・今度の風のミサキ様には・・ずいぶん若くて・・・ためいきがでる。
 
「やあダニー、ヘンリクさんの東屋は順調に完成したみたいだね。でもあの大量の流木どうするの?」

「実は困ってるんだ。青トラホテルには置き場がないし・・ダイダラ君歓迎イベントで大々的に焚火するらしいから、そこで燃やしちまえないだろうか?お願してたんだ。で、北九州では収穫あったの?」

「おもしろかったよ。政権が自民党から民主党に移った霞ヶ関なんか盛んに焚書坑儒してるんだろうけど、三潴、三井は古代に歴史が消されている。」
 
「高良山(こうら)の高良大社だけれど、諸説があって祭神すら確定できないらしいね。近世まではなんとスクネさんのご先祖の墓所と一般にはいわれてたらしいじゃない。」

「一応の祭神、高良玉垂命は、『記紀』やその他の古典に見えないのでどういう神か不明なわけ。吉田東伍は安曇族を祀ってるというし、折口信夫は住吉信仰に結びつけてるし、物部氏の先祖神を祀っているという説を取れば宗像神との関係も見えてくる。中世では宇佐の八幡の影響を強く受けるようになっていくし・・・」

「古代の主立った海神勢揃いだね。越後の異才、吉田東伍だけど、文壇デビューの頃は吉田東っていうペンネームで書いてたんだ。知ってた?」

「妻有にご招待いただいてありがとうございます。一度きてみたかった。高良山の麓には3つの泉があって三井の地名の語源になってるの。一番有名な’朝妻の清水’のわきに建つ味清水御井神社の祭神はミズハノメ、あとの二つは山川町安国寺の金剛泉、松崎の泉よ。」

「泉の名に’妻’が入ってたんだね・・・正確にはここは東頸城の松代だけれど、頸城の物部と妻有をきり結ぶ地点です。黒姫山頂の松尾神社奥社の祭神はミズハメだよ。鵜川筋の清水谷からの登山道の中腹には名水100選に選ばれている出壷の湧き水がある」

「ミズハメは七夕の織り姫でもあるのよ」

「御井町誌に<南筑高校に隣接する警察官舎一帯は、昔は松林であった。そこには高良神社御神幸の頓宮があった。別名お仮屋といって御神幸の時、旗崎池より神道(深道)を通り、このお仮屋で一泊して高良山へ御戻りになったのである。>なんて記事があって、ジャワの水の王宮の神話や東大寺のお水取りを思い出させないか?」

 
「ジャワのムラビ火山と水の王宮と海のアナロジーでいえば、阿蘇と三井の泉と有明海?」

「阿蘇氏についても調べなくちゃね」

 明け方まで話し込んで・・・・

 安曇族の御先祖として「 底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」という神さんが有名なのだけれど、この筒(つつ)って何かな?長い間疑問だったけれど少しヒントを得た。

 筒は管状の空洞を意味するから、たとえば、竹で編んだ漁具や、船では帆柱をたてるための縦穴をいうらしい。この管状の穴は帆船では心臓部だ。穴の底には船魂を祀る別穴があってツツ穴と呼ばれている。(筒穴、帆柱をたてない動力船になっても船玉を祀るこの言葉は生きている)
 
 動詞になると空洞を包むとなる。例として前に書いたフィゴや楽器の’鼓’はわかりやすい。土手とか堤防の意味と思い込んでいた’堤’は池そのものも意味するらしいし、池の囲われ方の形状も意味してるのかもしれない。

 折口信夫は『水の女』のなかで、ミズハノメやミヌマについて書いているのだが、ツツは蛇を意味する古語だという。
「住吉神の名は、底と中と表(ウエ)とに居て、神の身を生かした力の三つの分化である。”ツツ”という語は蛇(雷)を表す古語である。”を”は男性の義に考えられてきたようであるが、それに並べて考えられた(ミヌメ)・宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女だったのである。」

 言い換えれば神はほかに居た!!!ということになり、その神とはニギハヤイあたりになるのだろうか。

 ああ、それから「ツツ”という語は蛇(雷)を表す古語」とあったので、ライのことを思い出した。遠い記憶の中で「先祖は北九州だよ」といってたが、その故地を三潴群にほぼ隣接する竹野郡に発見した。

 
 トニーと帰っていった風のミサキとは、ぼくも三潴にいくと約束の握手をして別れた。
 やわらかい手だったなあ。

2009年9月29日 (火)

jump(9)

 ”この雨にやられてエンジンいかれちまった。どうしたんだヘヘイベイビー ”

 実に僕は今年に入ってから少し疲れていて、昨晩も早々、飯を食わずにシュラフに潜り込んだ。

 今は午前1時半くらい。夜中に降り出した雨がテントをたたく音で目が覚めた。

 暗いテントの中でタバコに火をつける。僕の吐く息がタバコの先端に吹きかかり、かすかに赤く明滅する。ここには”風のミサキ”が確かに存在する。

 僕はダイダラ君のことを少し想像する。あさって古代蓮、最後のつぼみの開花とともにダイダラ君はニライカナイから松の山に現れることになっていて、ダイダラ君を慕うビックストーングループの若い面々が全国からこの地に集結するらしい。

 ボノは’思うだけじゃだめだ’といったけれど、時代は一回りしてしまっていて、思いつかなきゃ始まらない。僕はまず’想わなければいけない、想うのはボクだけじゃなかったのだ。

 もう秋だ、と、すすきが教えてくれていた。気温が急に下がって真夜中の大雨、僕はテントの中で2枚重ねのシュラフの中。おまけにテントの中で傘までさしてこうしている。

 チャーリーさんがくれたお弁当があったのを思いだして、真っ暗な中で食べてみる。どうやらハンバーグ弁当らしい。ニライカナイの生活を想像して、300回ずつ噛んでみる。
 
 ああ、雨脚は強くなるばかり、明日やってくるはずのトニーと’風のミサキ’はどこを走ってるんだろう。

 トニーは、北九州で物部氏発祥の地を探索していた。福岡県三潴郡あたりをうろついていて風のミサキに出会った。風のミサキは東京生まれらしいのだが、一族の故地、三潴郡をどういうつもりか、やはりうろついてた。高良神社や石人山古墳や基肄城や何度かすれ違ってるうち言葉を交わすようになったらしい。

「三潴(みづま、みむま)って普通は読めないのよ。古くから簡略化されて水沼とか水間と書かれたりしてたの、だから、三妻と書けないこともないし八女郡との境には明治の初めまで下妻村があったわ。
 ダニーが越後の妻有にいるなんて不思議ネ!こちらは筑後川、あちらの妻有は信濃川、一度行ってみたかったの」

 今年から妻有リエンナーレは、舞台パフォーマンスを充実し始めた。農舞台には地元の松木工務店さんが製作した仮設の感じのいい客席まで完成していて、いろいろな演目がひと月間行われた。

 そのなかで「沖縄自由学校」が企画した、宮沢賢治の『農民芸術論』の100人による朗読。オーボエの独奏。元コンディショングリーンのシンさんのバンド演奏。宮古島島唄の演奏らがチャンプルされた企画がおこなわれた。

 宮古の綾歌演奏の中で「人頭税廃止綾歌」が歌われたのには驚いた。谷川健一さんのご本の中で僕は知ったのだが、明治時代にこの運動を宮古島で先導した頸城板倉町の偉人中村十作さんについて故郷で知っている人は少ないのではないかと思う。(この日は板倉町から中村十作さんの関係者が30人くらい招待されていた。)

 その同じ谷川健一さんは物部氏の発祥の地を筑後川流域の三瀦と比定している。先発して東に進出し、数百年後、古代の天孫族が同じく三瀦あたりから奈良に向けて東征を開始する頃には奈良盆地で長脛彦と連合していたといってる。

 谷川さんは『白鳥伝説』に書いている。
「太田亮は『高良山史』の中で、投馬国を上妻・下妻・三瀦の三郡の隣接する地域に比定している。三瀦の三は美称であり、上妻・下妻は妻から分かれたと説明する。だが、水沼君(みぬまのきみ)という名前が『日本書紀』に登場する以上、水沼と三瀦の開係を無視して論をすすめることはできない。ミヌマはミツハとともに水の神である。ミツハメといえばミツハの女の神、つまり水の妖精(ニンフ)である。ここにおいて三を美称として、瀦(妻)と切りはなす説は首肯しがたい。したがって、三瀦は水沼に由来し、上妻・下妻は、最初には八女県であったのを、のち上下に分かち、カミツヤメ・シモツヤメとし、それがカムヅマ(コウヅマ)・シモヅマとなったと考えることができる。ただカミツヤメがはたしてカムヅマ・コウヅマというふうにたやすく変化し得るか、いくぶん疑問の余地があることもここに書き添えておく」と『白鳥伝説』に書いている。

 最後の八女が妻に変化すると述べられているあたりは納得できなくて、大先達の谷川さんと違ったことがいえないだろうか・・と考えている。

 アズマは吾妻、朝妻、とも書ける。ツマの古いルビは都万(日向の西都原)だ。ここは越後妻有。筑後には下妻、筑前には妻丸という地名がある。

 もちろん中魚沼にも物部氏の足跡は見えるし、頸城にも物部の地名は散見される。頸城という地名が名付けられる元になった頸城国造や頸城直は海民と関係があってどうやら北九州と縁があるようなのだ。


 ああ、ともかく「沖縄自由学校」の宮沢賢治『農民芸術論』なんてなかなか聞けるものじゃないので、よかったのだが、ぼくには、清志郎の‘EveryDay i have a Blues'
「雨に負け 風に負け イェ~イ
笑って~笑ってブルース~」の方がなんだかしっくりくるのだった。

2009年9月 2日 (水)

Jump(8)

 今日は9月2日清志郎が旅立ってからずいぶんたってしまった。Jump(7)から長く更新をおこたってしまった。「だいせんじがけだらなよさ」(後ろから読む)

 久しぶりに神田春さんのブログをのぞくと、この夏のツアーの模様が書かれていて友部正人が参加したことや(僕は妻有の下条、バタフライで友部君をほんとに久しぶりに聴いたばかり)石田長生さんにマーシーの”青空”をリクエストしてやってもらったことが書かれていて、「明日は富士ロックです」としめくくられていた。

 富士ロックには、マーシーや甲本君もでたらしい。オープニングで泉谷が”烏合の衆”をやったらしい。

 昨日、久しぶりにレーニーとあって、この夏の記録を渡した。ああ、このひと月の間に、レイニーが突然林彪少年を伴って妻有に現れ、約一週間、青トラ別館でアートウオッチバカボンディングしたのだった。放浪生活の果てに林彪少年は目に隈を作って帰還していったが、こちらもあのハイテンションについていけずに相当疲労してその後数日寝込んだ。

 アート見学の途中「胞衣」という作品の名前に引かれて出かけた。この作品は地面に直径10メートル深さ5〜6メートルの大穴をうがったものだったのだが、そこの地名は”岩入(がんにゅう)”だった。妻有の古代辰砂の産出地点はここかもしれない。”岩入”は岩丹生に通じる。その例は松田博士の”朱の研究”に列挙されている。

 ようやく、トニーからも連絡があった。北九州を大きく通り過ぎて今、京都らしい。旅先で知り合った若い”カゼのミサキ様”と一緒らしい。
 
 ちょうど僕はトニーのレポートにそなえて、久々に谷川さんの「青銅神の神々」を読み返していた。山鉄民に信仰の厚い伊吹山の麓、風の神、南宮大社について読んでいた。金属精錬にはタタラの熱を高温に保つために自然風の知識、近代ではフイゴ(鼓)の知識が必須となる。

 フイゴといえば、エティ氏は若い頃美術のオブジェとしてフイゴをたくさん制作しておられた。あれって何だったのかな?

 トニーは今度の若い”カゼのミサキ様”は海洋民のご出身だといっていた。確かに、風に精通してるのは金属の民か海洋民だものなあ〜

 このひと月の間に総選挙というものもあった。総選挙で初めて政権が変わるかもしれないという予感もあってか、投票率も高く、民主党が地滑り的に大勝した。

 極端な振れ方だった。しかし、自民党と民主党の間ついた議席の差200余りの差を生み出したのは、ほんの数パーセントの人々の投票行動によってなのだという。

 「ほんの数パーセントの人々の投票行動」がこれほどの差を生むというのが、小選挙区制というものなのだと知った。しかし選択肢の数が少なすぎる。


 僕らが義務教育で習った知識の摺り込みは強力だ。例えば以下にに書く「新潟県」という行政区分用語に縛られていたのが、そこから解き放たれる自分に気づいていちいち驚く。

 弓形に伸びた新潟県を南北に流れれている信濃川の流域が新潟県といえなくはないのだが、信濃川は信濃川、長野県の川ってことになる。なのに信濃川は長野県に入ったとたんに川中島で分岐して犀川と千曲川に名前を変える。

 柏崎は江戸時代は太平洋側桑名藩の飛び地だった。このことを調べてみると、南魚沼から妻有は江戸時代には会津藩の知行下にあったらしい。桑名藩というの会津藩との関連だったらしい。松代松之山は江戸幕府直轄地の天領(この範囲を確定しなければならない)、頸城は譜代の松平氏の知行下にあった。

 桑名藩と柏崎の関係は「きっと北前船の関係かしら・・・」と想像してたのだが、違ってた。そして、その’北前船’の’北’だけれど、ぼくはいままでは北海道の北だと思い込んでいた。主に蝦夷地の物産を天下の台所大阪に運んだ航路だとおもってたからだ。

 今回、少し想像をめぐらしてみると、江戸時代に蝦夷地を北海道と呼んでいたかは疑わしい。江戸時代に「日本海」を日本海とよんでいたかは相当疑わしい。で・・・少し調べた。すると、どうも古くはかの海、池のような小さな海のことをこの海の面した地方に住んでいた漁民は’北海’と呼んでたらしいことがわかってきた。’北前船’の’北’はこの北海の北だったに違いない。

 現在でも韓半島の人々は、この海のことを’東海’と呼んでいる。同じような感覚で島国の人々はその海のことを’北海’と呼んでいたに違いない。しかし近代化の荒波の中で島国の人々はこの海のことをあたかも自分たちの所有物のごとく「日本海」と呼んで憚らなくなってしまった。

 そのような意識は第二次大戦中最高潮に達し、関東軍はこの小さな海をせき止めて池化(湖水化)する計画を策定するまでになっていた。

 

2009年7月27日 (月)

Jump(7)

 突然ですがJAMPのコード進行ですが
<C夜からG(変)わるGsus4G/FいつものC(時間)にCBm/Am世界Em考えF朝日G(遅れ)たGsus4G/CなぜG(ニュー)スG(ばか)りsus4GFテレビC(つづ)けるBm/AmなぜEm(嘘)ばかりFオレG聞こえCる/AmおおEm荷物F(まとめ)てC(でよ)うBm/AmおおEm(も)しかFきみG(会え)るね/CジャンプEm夜がF(落)ちてG(前)に/CじゃんぷEm(も)うF高くGジャンプC(す)るCsus4C・・・ってな具合です。上のコード進行もカポ4フレになってるが、いちおうこれで歌える。>レーニーからのメールより引用。

 7月22日皆既日食の日に話しを戻そう。実を言えばその前々日から寝込んでしまい、当日目が覚め、ブラックアウトのただ中と思いきや、ホワイトアウトのまっただ中に浮かんでいた。ブラックアウトは怖いが目が時間の経過とともに慣れてくる。ホワイトアウトはただただ息ができないくらいに怖い。

 東京に戻ったゲーリーは東京の大穴に潜って皆既日食時に種子島にスリップしようともくろんでたんだろうけれど、たぶん失敗に終わったような気がする。種子島南部と同じように完全な皆既日食が6分続いた吐火羅列島諏訪之瀬島の火山の火口穴に陣取ってたはずのトニーもビーダラちゃんに会うことはできなかったような気がする。

 次の皆既日食が島国で見られるのは26年後、しかし地球規模では毎年何処かで皆既日食はおこっていて・・・ともかく、ニライカナイとこの島国では時間の尺度がまるで違うらしいのだ。だいたいニライカナイの食事?では、一日(その単位も比較しようがないのだけれど)一口何物かをベットの中(べつに食事の時間というものがない?)で口に入れるだけらしいけれど、そいつを3000回カミカミするらしい。強いていえばこれがニライカナイの時間の単位らしいのだ。

 それに、ひとつひとつのボディは精神とか魂の入れ物とかいう位置づけではなくて、単なるメタンガス(有り体に言うとオナラ)の発生装置と認識されてるらしい。メタンガスからは水素を取り出す。水素はニライカナイのエネルギーのすべてをまかなう。

 皆既日食にあわせてか島国の若者に対するアンケートの結果が発表されていた。「『自分の好きなことをしたい』若者より『人のためになることをしたい』若者が増えている」らしい。そして、驚いたことに、そのアンケートによると「あの世を信じてる20代の若者は49%だった」らしい。

 ぼくは、ニライカナイについてたびたび書いてるけれど、とりあえずは「あの世は信じてません」ニライカナイはリアルなんだとだけいっておこう。

 で、ホワイトアウトがあんまり恐ろしいので目をつむってたらさらに寝込んでしまったらしく、目が覚めたら、どうも一週間は経っていて、二ツ屋の古代池のほとりにではなくて青トラホテルのカビ臭いベットの中だった。

 寝てるあいだの記憶では何度もエティ氏から電話があったような気がしたので連絡すると、「あずまは吾妻だったね。二ツ屋は何処?妻有だったね。」ボクとしては、エティ氏のお話を聞いてる方がどれくらい楽しいかわからないのだけれど、氏は、たいして興味はなさそうなのだが、ボク自身が興味を持ってることについて好きな話しをするようにしむける。

 きょうは「ダニー・・大久保長安ってどういう人物だったっけ?」とのご質問。

 ズッポリ空白になった頭に最初に浮かんでいるのは、やはりミズハノメのことだった。で、すこし調べてみた。驚いたことにというか、あっけらかん、刈羽の黒姫山の黒姫社の祭神はなんとミズハノメだった。ボクは先回、「黒姫社の祭神は奴奈川姫」と書いたのだが、それは他の黒姫社の祭神がほぼ奴奈川姫だということから推察で書いたことだった。

 なので、そのとき書いたオカミとミズハノメ、岡野町のくだりはあたってる可能性が高くなった。

 そして、もうひとつ頸城地方には岡田という地名がある。そこはちょうど中頸城から東頸城への郡境、桑取り川(保倉川支流)の上流に位置している。岡田から東頸城に向かって鞍馬、桑曽根、法定寺、坪山と続く。

 鞍馬は京都の鞍馬天狗の鞍馬を思い起こさせ、その山塊には貴船神社が鎮座する。貴船神社の祭神はタカオカミと、ミズハノメ。刈羽黒姫山と同じような類推がここでも成り立つ。そして、’桑’取川が暗喩するものは?桑の実はおいしくて子供の頃トニーとよく他家の桑畑に忍び込んだ。でも、口のまわりが桑の果汁でまっ青に汚れてしまうのでいつもばれて叱られた。桑は鍬でもある。法定寺には天然ガスが古来噴出していて今でも当地で実用されている。坪山、ツボは大坪繭子さんについていつか書いたように九州物部氏と宇佐八幡につながってゆく。もちろん頸城には古来物部村があったのだが・・・

 ああ、それから、現在残ってる黒姫山は三つと思い込んでたのだが、信濃川の川向う栃尾にも黒姫山が存在するらしい。

 しかしもうここからは、たぶん今頃は吐火羅列島諏訪之瀬島を脱出して九州あたりにいると思われるトニーからの報告を待つしかない。”岡”地名をたどってゆくとやはり北九州にたどり着いてしまうのだ。

 ボクの方はぼんやりした頭で、何もするもともなく、青トラホテルのベットの上なのだが、しかたないので、今週、青トラホテル”海の家”を1週間期間限定開業することにした。

2009年7月18日 (土)

Jump(6)

 先日当地に別荘を物色にきたチャーリーさん(チャーリーさんは近頃不動産屋に転身を図ってるようだ)と久しぶりにあって、おきまりの’あずま食堂’を覗いたのだが、あずま食堂は今日もまぼろしだった。

 前置きが5話も続いて今更なのだが、今回のぼくらの旅には目的がもうひとつあって、当麻の湿地に”ヘンリクさんのための東屋”を造ってほしいとさるすじから申しつかってたのだった。

 建て込み中ずっとかかってたのはもちろん清志郎の楽曲たち。おかげで作業は的確且つ迅速に終了した。
(1)ヘイ!ワ島(Peace iland)
(2)いいことばかりはありゃしない
(3)土木作業員の唄
(4)汚れた顔でこんにちわ
(5)Every day we have a blues
(6)イヤシノウタ(せむしーず)
(7)幸せハッピー(HIS)
(8)風に吹かれて(アルカイダーズ)
(9)君にだけわかる言葉

 ヘンリクさんは北欧の人で、たとえば、コウロギを大量に捕獲して、そのコーロギを鳴声の周波数別に変成し直して、町中のディスコに押し込めで音楽会するというようなひとらしい。今回は、特別な周波数を拾うようにセッティングされた集音機で湿地の様々な音を拾い東屋に用意されたヘッドホンにてその音を聴いてみる。という趣向らしい。

 この辺りでは30軒くらいがひとつの集落を形成してることが多いけれど、たとえば、今回お世話になった鷹の湯のある二ツ屋なんかはほとんどが俵山さんという名字だ。なので、日常的には屋号をもってどこの俵山さん家を区別している。屋号でポピュラーなのには、西、東、大工さ、エンキョなんてのがあるが、’あずまや’も多い。(ああ、松代の農舞台から、新しくできた民俗博物館方向への渡り廊下に、ある集落の各々屋号のついたボタンがえんえん設置されていて、そのボタンを押すごとその家のご主人なりが当地の方言にて迎えてくれるという展示がある)

 ’あすまや’って、ニュアンスとしてはあばら屋とかバラックとかの印象がある。列島の西の勢力が東に進駐してくる際に、’あずまの国’の居住者をバカにした言葉だったのかしら・・・

 『源氏物語』に東屋の章というのがあるそうでウイキによれば<浮舟の隠れ家を訪れた薫が詠んだ和歌「さしとむるむぐらやしげき 東屋のあまりほどふる雨そそきかな」(東屋に葎が生い茂って戸口を塞いでしまったのか、あまりに長い間雨だれの落ちる中で待たされるものだ)に因む>ということらしい。

 どんとは‘でっかい家’という歌を歌ってるけれど、ぼくらの’ヘンリクさんのための東屋’には、そんな意味合いが込められている。この地から信濃川はじめとする様々な河川を下って日本海(北海)へ幾十年かかって旅し、ふたたび浜に打ち上げられた流木たちを拾い集めて、’ヘンリクさんの東屋’に戻してあげた。まっ、流木たちにとってはよけいなことだったに違いないのだろうけれど・・・・

 

 上のリストではHISの”幸せハッピー”は特にお気に入りなのだがいつもお世話になってるブログに書かれてた。”幸福の顔は一様だが、不幸の顔はとりどりだ、とは誰かが言っていた格言のようなものだ。”

 

2009年7月17日 (金)

Jump(5)

今日7月9日はライがニライカナイに旅立った日だが、3日後にはヨウクンが旅立っている。
 レイニーは”すべてはオーライ”鼻歌まじりに林彪少年の待つ家へもどった。

 以前にカルメンマキに”空へ”という曲があることは書いたけれど、カルメンマキのデビュー曲は”時に母のない子のように”で寺山さんが作詞している。 
 ”すべてはオーライ”にも’時に母のない子のように’というフレーズがでてくる。清志郎は物心つく前に産みの母と別れたらしく、実の母の姉さんに育てられたらしい。初めて産みの母の写真を見たのは40歳になってからだったといっていた。

 ぼくは黒姫に戻らなくてはならない。黒姫山の麓、岡野、岡田について気になることがある。鵜川の谷の黒姫山に対する連山は米山、尾神だ。米山には胞衣姫がおわしまする(現在、その辺りの駅名は「米山」だが昔は青海川駅といった)が、この件については以前さんざん述べたので今回はよす。今回気になってるのは尾神のほうだ。
 尾神の語源には諸説あって、大神、蛇神、巨人神、狼などがある。ぼくは松苧神社のことを知って、’苧神’説を昨年までは考えていた。この山の麓で近年までカラムシが目撃されていたのだ。
 ぼくの以前の限界は、この山を日本海からのみ眺めていたことにある。しかしこの山を信濃川の方から黒姫の方から眺める視線が入ったおかげですこしずれだした。 

 黒姫の多重人格の中には丹生都比売が混入している。 ”岡”ってミズハノメのことじゃないだろうか?
 ミズハノメは漢字で書くと罔象女となって、まずフツウは読めない。だだ字形が岡に似ている。岡田や岡野はミズハノメの里くらいの意味なんじゃなかろうか?これは清志郎のおみちびきだ。
 京都の貴船神社の祭神はタカオカミ、漢字で書くと高龗神でまず読めない。両方の神はしかし水の神ということが共通している。その二つの神の名前を冠した山が黒姫と尾神なんじゃなかろうか?

 丹生都比売の本拠地、丹生川(河)上神ではミズハノメとタカオカミが祀られているが、古来、「雨師神」と呼び慣わされてきたらしい。これで思い起こされるのは、青海の黒姫山の近くに雨飾山という山登りする人々に人気のある山があることだ。雨飾はもともと雨師山だったにちがいない。これも清志郎のおみちびきだ。

 もとへ、そもそも丹生都比売がなぜ水の神に、ミズハノメに変化できたかというと、丹生都比売は水銀の神だったからなのだ。

 しこで水銀の痕跡を求めて十日町博物館に行ってみた。この博物館の目玉はもちろん岡本太郎でおなじみ縄文火焔式土器だ。ああ、1964年東京オリンピックの年、新潟県では新潟地震と新潟国体があって、国体の聖火台はこの火焔式土器を模した物だった。

 本物の火焔式土器は想像した物よりずいぶん小振りだった。意外に荒々しさが感じられない。

 いや、水銀の痕跡を探りにぼくはここにきたのだ。水銀、辰砂といえば古墳などの装飾に使われた顔料が思い起こされるのだが意外に十日町辺り信濃川流域には古墳は少ない。しかし土器変遷の解説のコーナーになんと、ベンガラと、この地の縄文後期の土器片とともに辰砂の赤い粉末がシャーレに入れられて展示されていた。
 水銀は列島を東西に分断する中央地構帯沿いに多く産出地点がある。その中央あたりは奈良の南丹生都比売の根拠地を通る。ぼくの確認できた中央地構帯の東限は諏訪湖の西、長谷村の浦のあたりだ。

 この辺りで水銀が採れたとしたらどこだろうか?室野の隣に浦田というところがある。ミムロの神と浦、ここらあたりを候補にして探索を続行しようと思う。

2009年7月 5日 (日)

Jump(4)

Jump(4)
 とりあえずはこの晩、久しぶりにマリリーの姉さんのオカミのレジデンスにご厄介になった。

谷間の唄?残念なことにぼくらのほうは比喩ではないリアルな谷間を翌日ほっつき歩くはめになる。・・・とほほ

 黒姫山は、刈羽郡高柳町にある。高柳町は1901年岡田村、岡野町、高尾町などが合併してできた。今はたぶん柏崎市に編入されている。

 ぼくらは、道順からいっても本来なら鯖石川の谷、旧高柳町の役場のあった岡野町から登れば楽に登れるのだが、復活したレイニーが裏から登ろうと主張するので、ぼくらの歩んできた人生を鑑みるに順当な選択なので、鵜川の川筋、清水谷から山に入った。

 順当な選択ではあったが、こちらからだと麓から登りはじめることになるので3〜400メートル清水谷の閻魔さんに見送られてからおよそ2時間の登山になった。山頂にはほこらがあり魚沼の巻機山、胎内山、八海山が遠望できた。

 ほこらの祭神はヌナカワヒメ(松社にも祭られている)、じつは頸城地方には三つの黒姫山が存在する。ひとつは越中にちかい青海町(西頸城)に、ひとつは信越国境(中頸城)の柏原に、そしてこの刈羽と東頸城郡境のここだ。青海には姫川があり翡翠を産する。列島の古墳などで発掘される勾玉のうち渡来以外のものはほぼこの地方産の翡翠が使われている。その翡翠の女王ヌナカワヒメにほれた出雲のオオクニヌシの求愛の歌が万葉集(記紀だったかな)にあったりする。

 天孫族に滅ぼされる過程でオオクニヌシの一方の息子タケミナカタはこの姫川川筋を敗走して諏訪湖に至り諏訪神となったことなってる。この国譲りの話しは古事記のみに記載されてる。

「ああ、諏訪社は全国に数多いけど、二ツ屋にもあったね。信濃川は諏訪湖に端を発すといえなかあないし・・・」
「ゲイリーはあそこで逢いたくない自分に出会ったらしい。」
「ふ〜ん、諏訪湖って列島にあいた大穴って感じあるもんなぁ〜鷹の湯の若女将よかったなー黒姫の生まれ変わりだったりしてね・・・名前はきけなかったけどきっと綾子さんだと思うよ。」
「二ツ屋はこちらから見ると信濃川の川向こうで魚沼だからね。しかし魚沼にも巻機山はあるんだ。マキハタヒメは黒姫だって説もある。」
「ぼくらの探索すべきは、ヌナカワヒメが祭られている山がなぜ黒姫山って呼ばれてるかだね。カラムシ→織物からはなれて別の解答を探ってみよう」

  蒲生から渋海川の支流を入ったところに室野がある。この集落にはヌナカワ小学校がある。ムロはムルに通じ海民の関係する地名だ。この辺りの集落は山の小高いところにある場合が多いけれど室野は川沿いにある。ヒヨットすると、古代には大きな池があったかも知れない。

 奈良の三輪山は、古来ミムロ山とも呼び慣わされている。そこは日高見族、ナガスネ彦と縁の深い土地柄だったはずだ。その時代、奈良盆地は湖だったはずだ。

 苗場7/25にフジロックで「忌野清志郎 スペシャル・メッセージ・オーケストラNICE MIDDLE with New Blue Day Horns」があるらしいけれど、魚沼から苗場を抜けて三国峠をこえれば群馬はすぐそこだ。

 群馬一の宮にはたしかヒメ神が祭られている。鉱山、足尾、安中近くだったような気もするし、群馬の養蚕も思い起こされる。群馬は海に関係ないだろうと思われる向きが多いだろうけれど・・・・利根川がある。霞ヶ浦がある。やっぱし最初は海だろう。

 ぼくらの問題にしている「あずまの国」にもし歴史書があったなら、その第一ページは’地球寒冷化の章’からはじめられていたと思う。

 日高さんの御祖先の日高見族や、ピーターの御祖先の高原山毛族や、丹族が群雄割拠する以前の話しだ。

 地球温暖化によって現在の関東平野は水没しており、その頃の海岸線は群馬では佐野のあたり、栃木では高原山の麓まで迫っていた。高原山毛族などは船で伊豆新島から黒曜石を運んでいた。ヌナカワヒメの翡翠もどのように列島に伝播されたのかは興味のあるところだ。

 そして地球寒冷化によって、あずま平野は姿を徐々に現してゆくことになる。

2009年7月 3日 (金)

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 アオと青苧と青空と・・・”水の泡”トニーはどうしてるだろう?

 ”ウッヒョ〜たまらんざか”何度も叫びながらレーニーは登り続ける。黒姫山に登ろうと言い出したのはレイニーだったのだが、昨晩清志郎のv-clip見すぎて、ついでに地酒のぶどう酒飲みすぎたらしく、今朝はトーンダウンして「とりあえず足慣しに松苧神社に登ろうか?」といいだした。

 この松苧神社は延喜式(8世紀)にも記載されてて、ぼくらの探索してる”あずまの国”とは比べるべくもなく新しいが、ともかくは古いお社なのだ。現在の社殿裏からは黒姫が遥拝できる。黒姫は機織りの神ともいわれる。

 松代を中心とする東頸城は江戸時代は天領だった。そして信濃川流域南魚沼は古来、小千谷縮・越後上布の里で苧はその原料だった。田畑も少なく日本一の豪雪地帯の山間が江戸時代は不思議なことに天領だった。それは苧、からむしをこの地域で独占的に栽培させていたからだったと思う。

 しかし、松苧神社といえば太秦松尾大社を思い起こす。杜氏の信仰や秦氏を思い起こさせる。平安京以前京都はカモ氏とハタ氏の根拠地だったわけだが、頸城郡にはカモ地名が多い。このあたりでいうと渋海川、鯖石川、保倉川の3本の川の最上流に位置する蒲生田という集落がある。
 杜氏というならばこのあたりは全国一だった頸城杜氏の里でもある。

 しかし、ぼくらは、大穴と吾妻の国の痕跡を探索しなければならない。

 ぼくらはなんの変哲もない標高700メートル弱のピークの判然としないなだらかな稜線の続くその山容を確認し南魚沼、柏崎沖地震と立て続けに被災した社杜をて下山した。

 「松代のゲイリー推薦!”あずま食堂”行ってみようか?」

 ラーメン定食を注文、餃子がついてる。
「おいしいけどね・・”まぼろしのあずま食堂”ってほどのことはないよな〜」
「夕方からは滅多に営業してないってのがまぼろしなんじゃないの」
「そうだね。ゲイリー推薦て味のことじゃいよね。あいつ未だに3年前にサービスエリアで喰ったきしめんの味、熱く語るからね。」

 あずま食堂には角栄さんの偉業をたたえる分厚い写真集が置いてあった。角栄さんの置き土産というか旧国鉄の置き土産というのか、越後湯沢と直江津を結ぶ現在のほくほく線建設に付随して日本海側に儀明トンネル、信濃川側に薬師トンネルがほられた。陸の孤島だったこの地域はずいぶん変わったらしい。

 ああ、トンネルといえば”トンネル天国”って曲好きだった。山口富士男が在籍したダイナマイツの曲だった。どんとは”トンネル抜けて”やってるけど別の曲だ。その後の’村八分’では”水たまり”ってのがあって、どんとがカバーしてる。その後例の清志郎作詞TeaDorops放送禁止の”谷間の唄”がある。

Jump(2)

090702Jump(2)

 

 すでにゲーリーは「東京の大穴も心配だから帰る」と言い残して帰京してしまっている。 

 御当地ではゲーリーは生まれ故郷の’カ’に好かれてしまって、手足が丸太ん棒のように腫れ上がってしまっていた。本当帰京の理由はこの辺にあったに違いない。’カ’と書いたけれど地元の方達がそう呼び慣わしているだけで、ぼくらの知ってる金鳥の夏の蚊とは別物だ。

 蚊よりグッと小さくて羽音がしない。しばらくして刺されていたことに気づくといった具合。家畜などが多いところに棲息するブト、とかブヨでもない。しかし、痒さのあとの引き方はブヨにちかいかもしれない。一週間は痒くてたまらない。

 その被害のひどさといったら、夏なんか裸で歩き出しかねないレイニーの長袖シャツ姿が目撃されたくらいだ。それも、オシャレなレイニーが他人の長袖Tシャツを着用してるなんて・・・’カ’にさされるたびに”たまらんざか”と叫んでる・・・とほほ・・・

 東京に戻ったゲーリーからは国分寺の多摩蘭坂に行ってきたと報告があった。もちろん”坂(さか)”はミサキ様に関係する重要な言葉で、”穴”を解き明かすキーワードだから、ゲーリーの”あずまの国”探求はかなり深度を増しているらしい。

 清志郎が☆になって2ヶ月が経った。今朝も新しくアップロードされたファイルや洩れ落ちファイルを30個くらいユーチューブから落とした。

 散策から戻って清志郎の曲を流してると、’鷹の湯’の若女将が昼飯を運んでくれた。(二ツ屋にある2軒の温泉’やすらぎ'もここの旅館にも3泊4日の湯治コースというのがあってそれぞれ15000円と13000円なのだが、3食付きなのだ)

 若女将は卵丼をテーブルに置きながら「ああ、この人・・・私も好きです。三つ上の姉が大ファンでいつも聴いてました。」

「ヘェ〜どんな曲が好きなんですか?」
「私は小学生だったから・・あまりくわしくないんです」

「ああ、この旅館のチラシに<じょんのび>ってあるよね。この辺でも使うの?」「使います。でもこのごろはめったに聞いたことないですけれど・・・川向こうの高柳町は’ジョンノビの里’なんてキャッチフレーズを観光用につかってます。」
「へ〜高柳って、あの黒姫山の麓の村ですよね」

「この辺りは南魚沼郡、信濃川の川向こうは東頸城郡、その先が高柳ですが柏崎からの鯖石川の上流ですから刈羽郡になります。」

 若女将は隣部屋にご宿泊の地元のミサキ様ご一行に昼ご飯を配膳しに出ていった。

「まったく、ほれっぽいんだから・・いいネ若女将・・明日、黒姫山登ってみようか?」とレイニーが言い出す。

 午後は古代池の下見をした。
 帰ると最後の夕ご飯が用意されている。食前酒に自家製のヤマブドウのワインが出された。ジョグジャのぶどう酒アオそっくりな味だ。明日は黒姫山に登る。きっとそこでジョグジャの水の王宮の女神に出くわす、そんな予感がする。

2009年6月29日 (月)

Jump(1)

090621
 20日、レイニー、ゲイリー相次いでやってきて準備完了。夜はネエサンズの初会合が夜中の3時まで続いた。

 翌朝予定時間を2時間おくれで、リボンちゃん、スジーに見送られながら出発。道中、ハードオフにてゾーさんを物色しつつ8時間かかって目的地に到着。

 信濃川の川筋をキヨシローのお導きでロッカー(六箇入口)から支流に入る。ここ二ツ屋には大穴への入り口と推定される古代池がある。

 今日は6月22日、あとちょうどひと月後に皆既日食があり、一瞬の闇の中この古代池ではニライカナイからのトラベラーが目撃されるという噂なのだ。

 トニーは”水の泡”ばかりしばらく歌っていたけれど2〜3日前「ビーダラちゃんがあらわれるとすれば完全な皆既日食が見られる7月22日吐火加羅列島の諏訪の瀬だと思う」と言い残して旅立った。

 昨年、ゲーリーはすでに誕生の地であるこの二ツ屋の下見を完了している。その時のことらしいのだけれど「見たくない自分の本当の姿の出現に立ち会ってしまった」と彼がわけの分からぬ寝言のような独り言してるのをきいてしまった。

 池から這い出たストレンジャーこそ本当の自分だろうに・・jump!・・・とほほ・・

 この辺りはそばがうまい。’へぎそば’といいならわされていて、つなぎに海草を使っているという。’ヘギ’は蒸篭状の大きな器をさす。
「この山深い里で海藻?信濃川を遡って海民が入り込んだのかな?」
「つなぎの海藻って布海苔のことらしくて、古来この地方では繊維業が発達してて、織物に使われる布海苔がそばのつなぎに転用されたって説があるらしいよ」
「そば屋だけどどこにはいってもおいしいね。老舗の’小島屋’は皇室献上を歌っていて、ぼくらが一番うまいと思う’由屋’には岡本太郎の写真が飾ってあるのが面白い」
「岡本太郎がはじめて、この地で発掘されていた縄文火焔式土器を美しいといったんだったね」
 初めてあるモノに美しさを見つけることは素晴らしい。縄文土器は一見3000年を経て普遍のようだけれど、それを見ている僕たちは風に吹かれるくらいのことで刻々かわってしまっている。

 六箇入り口から二ツ屋に向かう道筋に麻畑というバス停が在った。当麻は谷をひとつへだてた支流の上流だが、この地ではアテマと呼び慣わされている。当麻はトウマとも読めるが、もちろんキヨシローのお導きでロッカーから谷を遡ったぼくらの読みはタイマーとなる。当麻はもちろん奈良盆地に鎮座する当麻寺を意味する。

 ああ、司馬さんの故郷でもあるけれど、ここは折口信夫の小説「死者の書」の舞台になった二上山の麓のお寺だ。西方浄土の入り口として信仰されてきた。西方浄土を視覚化した当麻曼荼羅は、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。

 う〜ん、蓮→古代池に植成する。織物→越後チジミ、着たら放せぬモチの良さ(十日町小唄ー越後美人との掛詞)。それからこの地の石は花崗岩で軽く叩いても粉々になる。出雲と同じだ。二上山辺りの石とも酷似していて...このような花崗岩は砂になると砂鉄を産する。もちろん古語のアサは砂鉄を意味する。そして、朝、アサヒはヒガシから昇る。

 物部氏と連合する日高見国のナガスネヒコ・・・そしてゲイリー誕生の地、二ツ屋と・・・まぼろしの「あずまの国」に一歩近づいたかも知れない。

 奈良と二ツ屋、荒唐無稽にきこえるかも知れないが信濃川の川筋を使えばそれほど遠くはない。

 ああ、サイゴに今回レイニーが体得した生活の知恵。安上がりな順番。ビールを飲んでから温泉につかる。

2009年6月16日 (火)

清志郎と青空(4)

 トニーはあいかわらず・・今日は朝から"ひとつだけ"をづっと歌ってる。 
 「ビーダラちゃん、マキさんと故郷がいっしょだったよね・・・・」

「清志郎と青空」(2)でカルメンマキとOZの春日さんの事に触れたけどカルメンマキには”空へ”という曲がある。好きな曲だったけれど本日は「いつかきっと・・・」というところにわだかまってしまう。

(3)で終わるつもりだったけれど、ユーチューブで"Sky Pilot"という曲を見つけてしまった。

 「おまえの滑走路に着陸したい・・」なんていう初期のHな曲だ。(やっぱし初期にHな「ネバネバしたいなー お前以外の女とはネバネバしたくな〜イ」”ロンリーナイト”なんて曲があったっけ・・)
 
 「SkyPilot」にはほかにエリックバートンとアニマルズのがあって、これが元歌かと思いきやまるで曲調が違う。エリックバートンのは「Sky pilot ・・How can you fly・・You never never reach the sky・・・」おなじネバネバでもこっちは反戦歌だ。

  先回も”あふれる熱い涙”と”溢れ出る涙”や”うわの空”のことを書いたけれど、曲調も詩も似たところはないけれど何か関係があるんだと思う。

 たぶん、この”Sky pilot"でエリックバートンは、”明日なき世界”(1999年頃)の清志郎が「鉄砲担いで得意になってになって、でもヨォ〜何度でも何度でもオイラにいってくれよ〜」と歌ってるみたいに粋がる兵士(若者)を皮肉ってる。”明日なき世界”はエリックバートと同時代のバリーマクガイヤー”Eve of Destruction”のカバーだ。
 
 どうせ夢中になるならHに夢中「Gスポットにニアミスしたい」方が戦争でジェット戦闘機の操縦に夢中になるよりまだましさと初期の清志郎は遠回しに歌ってたのかもしれない。(”明日なき世界”ではフルートを吹いていて、ああ、清志郎は1997年頃から吹き始めたらしいけど、ジェスロタルそっくり、ジェスロタル、ロックミュージカルみたいな感じで気になるけれど、ぼくの英語力では如何せん)

 ”サマータイムブルース”など原子力発電所建設に反対する曲を含む'covers'は清志郎の所属が原子力発電所関連のトップ企業東芝の子会社東芝EMIだったこともあって発売禁止になった。そのCDには”シークレットエージェントマン”という曲が入ってたりするけど、これが2005年の"GOD"につながってるのか・・・
 そんなごたごたの中で清志郎が山口不二夫&<TEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM仙台とFM東京で放送禁止になった事件(1989年9月)wikki>の際フジテレビで生を逆手に最高のライブしてるけれど5月3日古館一郎はどうコメントしたんだろう?

 ”サリン”や”あこがれの北朝鮮”古館さんは許さないだろう。かくいうぼくでさえ
 「カットですか」「すべてカットです」アルカイダーズのライブトークを聞いてるとシャレが効き過ぎで大丈夫かなという気がしてくる。

 朝からお昼寝の時間...トニーが寝言してる「ビーダラちゃんニライカナイでもカレー食べてる・・・・」

 「夜道を一人で歩いていたらあ〜どこからか なにやらカレーの匂い〜 ぼくもこれから帰えるんだよ・・・」ではじまる”素晴らしきこの世界”はサッチもの“What a wonderfull world"を思いさせる。
 
 前半は「ぼくはネコになりたいよ。くだらないことから逃げて寝ていたいよ」
なのだが「寝ぼけた頭でくしゃみを一発する」と世界は展開する。「ネコになりたい」のに清志郎は「ムキになって」「くだらないこと」を考えはじめる。「民族紛争 果てしない仕返し 正義のアメリカミサイルをぶち込む 飢えた子供たちの目は鋭く 偽善者と呼ばれて自殺する男たち」「夢見る前に現実を見よう」

 ああ、ここまでお調子こいて書きすすんでしまったが、この曲’真心ブラザース’カバー曲だった。2004年真心ブラザースへのトリビュートアルバムの一曲だった。この曲でも清志郎フルートを吹いている。

 なので”素晴らしきこの世界”を歌ったときに清志郎が”What a wonderfull world"思い描いたかどうかはわからなくなってしまったのだけれど、「I see skies  of blue clouds of white」ワンダフルワールドには青空がでてくる。
 
 ぼくは”wonderfull world”を聴くとどうしても大師匠のことを思い出してしまう。美貌の蒼空、大師匠がニライカナイに旅立つ直前の秋の公演で、この曲は流れた。

 ミサキ様から久しぶりの電話。「どう?トニーちょっとおかしかない?」
「ええ、ちょっと・・・ミサキ様こそお体の方はもうよろしいんですか?」
「リハビリが昨日終わってね。12月4日だからね。今年は」
「はあ」
「ハアじゃなくてトニーにしっかりいっといてよ」
「ハア・・・あいつなんだか12月だけはモロ平投資クラブの視察旅行で東欧に行くとかいってましたよ。今は廃人みたいだけど・・・」
「とにかくよろしくね。ちゃんと伝えてよ。今年の公演はね”5匹の子豚とチャールストン”にきめたの」
そう言い残し電話は途切れた。

 「☆になった清君」仏式ではそろそろ・・・悪い噂も四十九日、僕も旅に出る。

 

2009年6月11日 (木)

清志郎の空(3)

 12日まで渋谷でMajika De Miru Star Tourのドキュメント「不確かなメロディー」やってるけど見に行けない。

 以下清志郎の曲で’空’が出てくるものを網羅してみることにする。どの曲聴いていても清志郎自身が近々☆になることを予感していたと思えてくるのが不思議だった。

 

 トニーがギターを鳴らしてる。”さなえちゃん”らしかった。「大学ノートの裏表紙のさなえちゃんが消えたの・・・もう二度とあえないの〜」
何日か前うなされて寝言で”GoodDayサンシャインラヴ”歌ってたから、夢の中でビーダラチャンに逢ってきたのかもしれない。

 ”さなえちゃん”はチャボの曲だ。”雨上がりの夜空に”もチャボの曲で清志郎が詩をつけてる。この曲の数えきれないバージョンがアップされてるけれどチャボのこの”雨上がりの夜空に”は泣ける。たぶん清志郎の病気発覚直後のライブだと思う。

 清志郎の公式サイト”地味変”(ああ!’マジかで見るスターツアー’といい語呂合わせの天才だ)によれば、78年頃チャボがRCに加わり(ぼくが最初にみたRCのギターはカルメンマキ&OZの春日さんだったけれど、この頃だったらしい)80年の1月に”雨上がりの夜空に”は発売されてる。

 その以前、渋谷のライブハウス(って言葉はなかった)’青い森’については、泉谷しげるがばりばり書きはじめている。泉谷も”雨上がりの夜空に”やってるけれどここには’どんと’と泉谷のをリンクしておく。

 そのどんとに”うわの空”があることは前に書いたけれど、清志郎にも”うわの空”があった。この曲はどんとの曲とはとりあえず別だけれど、きっと”孤独な詩人”以外にもどんとの曲をやってるような気がするので調べてみよう。

 

 トニーの演奏はつづく。こんどは”君にだけわかる言葉”らしい。あやしい。ほんとは行方不明のビーダラちゃんとあったのかも知れない。

”君にだけわかる言葉”清志郎はダジャレの天才だ。”ラブミーテンダー”を「なにいってんだ〜ふざけんじゃね」にしちゃうし。「イモ」は陰謀、陰毛、インポときこえてくる。

 「きみの きみの きみの きみの子供が欲しいな〜 ぼく」ああ、トニーが今度は”サマータイムブルース”やってる。人それぞれ、聞きたい、はまるフレーズはどっかにあらあ〜

 あらあ〜、あらっ、あらら、アラー?長間敏と神田春さんがやってたアルカイダーズについては、公式ページの”地味変”には記載がない。(クラゲーズとかセムシーズとかいろいろあったんだね)ぼくは神田春さんにすっかり恋をしてしまって彼女の身辺調査した。2人は「奇妙な世界」という曲を歌ってた。

 「誇り高く生きよう」はモロ平によればモロ平投資クラブの歌らしいと以前書いたけれど、’投資クラブ’のホントの(裏の)歌をぼくは知ってる。それは「カモ鍋」だよねモロ平!かもお〜んべいびー!リンク貼らせてもらったこの「カモ鍋」サイコーだぜぇ〜

 そのモロ平だけど、去年の10月から3ヶ月前まではHISの「夜空の誓い」ばかり歌ってたのをぼくは知ってる。ぼくはそんなモロ平に「太陽のあたる場所」をプレゼントした。

 けれど、ぼくは知ってる。モロ平は生まれてから今まで一度も泣いたことがないのだ。
「お前一生泣いたコト無いまんま死んでいく気かよ。たのむよモロ平、泣いてくれよ。はずかしかったら、滝壺の中で泣けばいい。ホントに泣けないなら嘘泣きでもいいよ」

 パンタが好きなモロ平はいいヤツだ。数日後、「あふれる熱い涙」のCD送り返してくれた。

 ぼくにとって「あふれ出る涙」と云えばローランドカークだったのだが、清志郎はチャー(竹中)との対談かなんかで、「ジェスロタルのコンサート観に行ったよ」なんていってた。そのジェスロタルでフルート吹いてるイアン・アンダーソンはwikiによるとローランドカークの影響を強く受けてたらしい。

 ああ、トニーが「風に吹かれて」やってる。

 清志郎は、ハープ、サックス、エレクトーン、Liveでいろいろやってるけどフルートもよく吹いてた。ここでは、アルカイダーズでの演奏にリンク貼らせてもらうことにする。

 ぼくは清志郎がどうして☆になってしまったのか「ほんとうのわけを知りたい

 ぼくは「ヒッピーに捧ぐ」を聴きながら今までであってきたいろんな人たちのコトを思い出してる。もうぼくはとっくの昔にぼくではなくなっていたのだ。

 薄着のぼくら笑っちゃうけど、歩いていくしかないんだろうな。清志郎の”孤独な詩人”でのマントショーを思い出しながら....

2009年6月 4日 (木)

清志郎の空(2)

 ああ、先回「誇りを高く生きよう」を最後に加えてあるけれど、この曲の歌詞には「空」は出てこない。どうして加えたのかというと「モロ平の投資クラブのテーマソング」とかねてよりかってにモロ平が主張しているからです。

 モロ平と以前カラオケに行くことがあって「トランジスタラジオ」をうたってた。その次にはパンタの「マーラーズパーラー」を歌ってた。ぼくは、今時カラオケに「マーラーズパーラー」入ってることに驚すぎて、「銃をとれ」が入ってるかどうか確認し忘れた。スポーツ新聞にそのパンタが「天敵だと思ってたやつ(清志郎)がいなくなったと思うとさみしい」といったとかいわなかったとかでていた。

 もちろん「ホットなナンバー空にとけてった〜」トランジスタラジオにも空はある。

 5月2日以来Youtubeから300ファイルくらいダウンロードして(未だにバリバリ新しいファイルがアップされ続けている)聴いている。云っとくけどぼくは清志郎のファンだったことはない。その歌詞には青空は出てこない。ただそこにあるのは空だけ。清志郎は空だった。

 ・・・・悲しいけれどぼくは清志郎のファンになるしかなくなってしまった。そして、ボガンボスの’どんと’のファンにも・・・  清志郎がどんと作の「孤独な詩人」をを歌ってるのを聴いてから気になってしょうがなかった。どんとも2000年暮れに☆になってしまってた。

 どんとには「うわの空」という曲があってパンタとは「悪たれ小僧」をやってた。

 ぼくはグズってばかりだけれど、(ああ「クズクズクズクズ人間のクズ」って曲好きだなあ)モロ平とトニーは5月2日の報に際して、バンドをはじめることにしたらしい。レイニーも参加するかもしれないらしい。そんなことになったら林彪少年はまた深く悲しむのだろう。

 彼が泣いたら、ぼくは、「林彪、きみが好きな”少年時代”を清志郎・・ウクレレでやってるよ」といってあげるだろう。
 本来なら林彪少年こそバンドをやらなければならない。しかし、島国には娯楽が氾濫しすぎているのだ

 ストーンズフリーク、レイニーおきにいりのナンバーは「エンジェル」。「アンジー」を思い出させる。この曲には「歩道を渡るとき空に踊るエンジェル」「調子に乗ってるぜエンジェル ガードレール蹴飛ばして見上げる空」と出てくる。

 (つづく)

2009年5月23日 (土)

清志郎の”空”

空がまた暗くなる

Jump

雨上がりの夜空に

イマジン

誇り高く生きよう

2008年10月21日 (火)

大穴と青空(1)

 大穴と青空

 しま田さんによれば、ゲーリーの「コリア留学はちまたの噂」にすぎないらしいというのだが、この件については、11月に兄貴は「コリアのミサキ様」とペニンシュラから戻ってくるというので、そのときにはっきりするようだ。

 グラスオニオンの中でegg manことジョンレノンはFixing a hole in the ocean / Trying to make a dove-tail joint, yeah「大海原にあいた大穴を埋めようなんて、それは無理ってものさ」といっているyeah!

 三井家の流れヨーコといっしょになったレノンは、竜宮城の在処を突き止めていたかも知れない。三井といえば三池炭坑だが、かの地は、古代物部氏(古代海民、安曇族とも縁の深い一族なのだ)の発祥の地といわれている。

 物部氏は倭国の大乱の頃(2世紀後半)コリアのミサキ様の意向を受けて東に移動し、ヒノモト・ナガスネ彦と奈良盆地で協調して日高見国を作っていた。

 しかし4世紀後半中国の争乱を受けペニンシュラで楽浪、帯方郡が滅びると、ペニンシュラに三国が形成され脅威が九州にも及びはじめると、九州にあった天孫勢力が東に移動を開始する。

 物部氏と天孫族はともに金属器集団ではあるけれど、物部氏は青銅器(主に祭祀具)、天孫族は鉄器(武器、農、工具)という違いがあった。(現代に至っても物部氏の祭祀用具であった銅鐸はすべて地下から出土している。これは焚書坑儒と同じく天孫族の勝利をものがたっている。)

 出雲や四国は最初に移動した物部氏の勢力下だったので、天孫族はこれを避けて、瀬戸内海を徐々に進み難波潟至る。しかし、難波潟の最奥、奈良盆地への通路、日下(クサカ・ひのもと)においてナガスネヒコと物部の連合軍に敗れる。(ああ、日下、クサカ・ヒノモトだけど物部氏がもともと九州にいたから難波、奈良盆地がヒノモト、日の出るところになるのであって、もともと奈良にすんでいたとしたら日の出るところはもっと東の地ということになる)

 ナガスネヒコは難波潟の海運、其れから奈良盆地東南の山地(主に吉野など)から産出する水銀などがその勢力の基盤だったらしい。(これはコリアのミサキ様のご専門だけど水銀は中国では不老不死を得る最高の薬とされている)

 一度ヒノモト・ナガスネに敗れた天孫族は、まず、奈良盆地西南、葛城山山麓に勢力があった古族、武内スクネ族とソガ族を懐柔したうえで、「ヒノモトを攻めるにはヒノモトから」つまり日の出る方向から攻めろ」紀伊半島を迂回して奈良盆地の東南から攻め、2度目にしてようやくヒノモト・ナガスネ連合軍を打ち破った。

 この敗戦を期に物部氏は天孫族の配下となる。そして後に、ソガ氏によって滅ぼされることになるのだが・・・この間のいきさつは蘇我氏の全盛期に造られた庭園「嶋庭園」、のちに草壁・クサカベ親王(日下・クサカ・ヒノモト)の庭園となるのだが、「嶋庭園」の奴隷に数多くその名が見えることでも知れる。

 また、ナガスネヒコはもともとの勢力基盤だった東国に逃れ、毛族(ピーターのご先祖、石の神)や東北のアベ族と連合し日高見国を名乗ってゆくことになる。

 結局今回は、大穴にも青空にもたどりつくことができなかったけど、以上は「大穴と青空」研究の前史になるのだ。