Jump(20)
トニーによれば、風のミサキはカンボジアから颱風20号に乗っかって帰ってきてたらしい。
カンボジアのクメール相撲については
「カンボジアのお盆(プチュン・ベン)の9月17日にカンダル州、ヴィヘア・スウー寺院で相撲を見学したの。この日はほかにも闘牛や、登山の競技も同時に開かれてたわ。クメール相撲はボン・オム・トゥック(水祭り)にも行われるらしいわ・・・・それから、ビザの関係で一度タイに出国してムエタイを見たわ、ムエタイの語源はクメール語で’一対一の決闘って意味らしいの・・・」ってなことを話してたらしい。もっとも風のミサキの関心はクメール相撲とアクロバットの関係についてらしかったということだ。
闘牛、牛犠牲、水祭り・・・僕は、平林さんのご本の中で引用されていた言葉を思い出した。
「和歌森太郎氏は、七夕は盆の前提となる行事の日で、水浴びや潔斎を行ったが、これとの関連で相撲が行われる意味があったと説き、目には見えない河童と相撲をとる独り相撲が一種の舞となって相舞と称されたのが相撲の語源であり、水神祭の折にその年後半の実りの豊凶を占う年占いとしての相撲が行われたと説く。」
野見宿禰と當麻蹶速の相撲、この列島の相撲の起源に関する独自性(葛木地方の倭文氏土師氏に関して)については今まで見てきたとおりだ。
それから「台風の影響で空港で時間があって、『ダニーがこのごろ書いたものも少し読んだわ。いつか青トラホテルにも行ってみたい』」とも話してたらしい。
あわてて僕はガスレンジを新調した。それから病院にも行くことにした。
ああ、新調したガスレンジだけれど、チョウすぐれもだった。「こげ防止センサー付き」なんてうたっていて、しかしまるで信用してなかったけれど、この秋豊漁のサンマなんか定食屋さんのウインドウの見本みたいにきれいに焼き上がる。近頃頻繁に空焚きして火事の心配さえあったのだが、こいつはかってに火を止めてくれる。風のミサキのおかげかガスレンジのご利益か・・・ともかく元気が出て病院に行くことに決めた。
これまでの旅のなかで、’つつ’も’かひ’も古代では、ものを包んでいるようなイメージらしいことがわかってきたのだが、しかし、この二つの言葉が使い分けられているのはなぜだろう?
’つつ’には穴がある。’かひ’は閉じている。今の僕にはそんなことくらいしかイメージできない。’つつ’には動詞があるのだけれど、’かひ’には動詞はあるんだろうか?
ともかく古代の人たちは、生まれる前の世界や、ぼくらがこの世の先に向かうべき世界に、ダイレクトに通じているとは考えなかった節があって、この世とそれらの世界の間の世界を想定していたらしい。
’つつ’も’かひ’もどうもこの’間の世界’と関係するらしいのだ。僕らがずっと問題にしてきた’大穴と青空’もどうやらこれらのことと関係があるらしい。
折口信夫は『霊魂の話』のなかで以下のように書いている。
「たまごの古い言葉は、かひ(穎)である。「うぐひすの、かひこの中のほとゝぎす」などの用語例が示してゐる様に、たまごの事をかひこと言うた。蚕にも此意味があるのかも知れぬが、此は姑く、昔からの「飼ひこ」として預けて置かう。
ものを包んで居るのが、かひである。米のことをかひと言うたのは、籾に包まれて居るから言うたので、即、籾がかひなのだが、延いてお米の事にもなつたのである。ちかひ・もゝかひ・しるにもかひにもなどの、用語例で見ると、昔は籾のまゝ食べたのかとも思はれる。籾は吐き出したのであらう。さうでないと、かひの使ひ方が不自然である。
かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。此がなるの本義である。」
折口さんは、「蚕にも此意味(たまご)があるのかも知れぬが、此は姑く、昔からの「飼ひこ」として保留しておこうといってるのだが・・・
Jumpを読んだらしい桑原君から新しい情報がもたらされた。
「秦氏の祖の弓月君の民で、葛城襲津彦がコリアペニンシュラから葛木地方につれてきた工人4集団についてJump(19)に書いてあったけど、そのなかに桑原もあるんです。それから、ダニーが旅にでるといってた筑紫平野にも三瀦のほかに桑原と大石、鳥飼がありますよ。」
とすると、桑原氏は秦氏の最も古い一氏族ということになるのだが・・・・
う~ん・・・頸城平野に色濃い’桑’地名、’長柄’地名への突破口になりそうだ・・・
大岩さんは秦氏の一大拠点または発祥の地は同じ北九州でも、豊前宇佐から筑後田川、香春のあたりと書いている。この地域に新羅系「秦王国」があったとしている。
筑前三瀦のあたりは物部の地だ。除福集団は、物部だったのだろうか?秦だったのだろうか?
桑原君の話は記紀に載ってる話なのだが、大岩さんは、『秦氏の研究』の’秦氏の祀る神々と神社’という章の中で、一番最初に豊前の’香春神社’をあげている。この神社は、おなじく秦氏と縁の深い、宇佐八幡宮の本宮だという。
香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比咩の三座。その神官は赤染家が二家、鶴賀家が一家という。赤染家は辛人(韓人)で、秦氏の同族らしい。
鶴賀は北陸の敦賀の気比神社を思い起こさせる。『日本書紀』垂仁天皇二年条に現れる、新羅の王子、都怒我阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐、うしきりありしちかんき)がケヒの浦に上陸した。という地名起源説話のことだ。
大岩さんは、ツルガには秦氏が居住していて、「白神信仰が盛んな地」であるとし、詳しく「志呂志神社・白鬚神社」の項に書いている。
p「378白鬚神社の秋の大祭(9月5日・6日)には、「なる子まいり」がおこなわれる。誕生年の翌年の幼児(男女とも)が白鬚神社に参詣し、神から名前を授かる神事である。この別名を数日の間本名として使えば無事に生育し、幸福な一生をおくれるといわれている。・・・
この「なる子まいり」で連想されるのは、建内宿禰が品陀和気命をつれて、近江.若狭を経て越前の角鹿(つぬが)に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中で、伊奢沙和気(いささわけ)大神(気比大神)から神の名を名乗るようにいわれ、名を易(か)えたという『古事記』の伝承である。・・・・・・
白神信仰の重要な要素である死と再生の観念が、変身という形で、この改名伝承に示されていると考えられる。
ホムタワケは近江・若桜を巡幸したあと角鹿に仮宮をたててすんだとあるが、仮宮は霜月神楽の「白山」に相当する。死装束をして「白山(しらやま)」に入り、籠りが終わって「白山」から出た人を「神の子」という。品陀和気命が、仮宮に籠っているとき(擬死)に見た夢の啓示で気比大神の神名(いささわけ)に改名したのは、白山儀礼と同じ死と再生の儀礼を意味している。「なる子まいり」で別名を名乗ることによって健康に生育し幸福な生涯を送れるのは、神の子として生まれ変わるからである。「成る子」の「成る」は再生の「ナル」であろう。」
頸城平野には直江津に居多神社があって敦賀の気比神社と関係が深い。また、頸城には十二神社という祠が多いがその祭神を『中頸城郡史』で見ると品陀和気命であることが多い。
もちろん白山社も多くその祭神はほぼ菊理比咩である。しかし、『東頸城郡史』によると東頸城の白山神社では別の神々なのだ。
大岩さんは白日神(しろし、志呂志神)について西田長男さんを引用している。
p372「式神名帳に所載の近江国高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が『志呂志』に転訛したものではなかろうか。即ち、志呂志神社の祭神は、日吉二宮(今の大宮)の神、大山咋神や賀茂別雷神社の祭神、別雷神や兄弟または伯叔父にあてられる白日神で、為に斯く日吉三の宮と呼ばれたのではあるまいか。
そうして、この志呂志神社は滋賀県小松村大字鵜川に鎮座の白鬚神社、即ちかの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して、『比良神』が『夷(ひな)神』で蕃神の意であろうことはほとんど疑いを納れないであろう」(白鬚神社としての初出は12~300年頃らしい)
僕が、この文に目を止めたのは、鵜川、鴨、白鬚と続いて出てきたからだった。この三つは松代にもある。黒姫山頂の神社は鵜川神社だ。当地の蒲生は、高台にはあるけれど、鵜川、鯖石川、渋海川、保倉川が接近する地点にある。白鬚神社の祭神は猿田彦らしい。
なんといっても延喜式に出てくる松芋神社がある。松尾神社はもちろん京都太秦にある秦氏と関係浅からぬ社だ。もし秦氏とこの東頸城が関係あるとするなら、松之山に伝わる有名な謡曲『松之山』にも興味が引かれる。秦氏と能楽には浅からぬ因縁があるからだ。
鵜川については、次のように書かれていた。
p379「このような再生の生命力が「白神」の霊力であり、神威である。
沖縄では、産屋を「シラ」という。白山(しらやま)としての仮宮は、神の子として再生するための産屋ともいえる。産屋を浜辺に作って鵜の羽で葺いたと『日本書紀』は書くが、白鬚神社の所在地を「鵜川という」」
鯖石のサバについては、折口信夫が
「精霊に捧げるのを産飯(サバ)と言ふが、」というようなことを書いている。


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