Jump(17)
ようやく『七夕と相撲の古代史』に入る前に・・・
どうやら、トニーからのメールによると、風のミサキはアジアの相撲の起源を調べにカンボジアに出かけたらしかった。カンボジアにはクメール相撲というものがあるらしい。
僕は、黒姫とミズハノメを追いかけているうち棚機姫に出会ってしまったわけだけれど、列島での相撲の起源と言われる野見宿禰と當麻蹶速の相撲は7月7日七夕に行われている。
jumpの発端となったヘンリクさんの東屋が建てられたのは妻有の当麻(アテマ)高原だった。二ツ屋の古代蓮は、奈良盆地葛城の当麻寺に伝わる中将姫が蓮の糸で織った当摩曼荼羅を思い起こさせる。
折口信夫の小説『死者の書』では、中将姫がヒロインなのだ。
中沢新一『古代からきた未来人』筑摩ライブラリー新書は手軽に読める。「死霊は踊る」という単元のなかで・・
p80「『エジプト死者の書』からの強い影響を感じ取ることができるが、内容はまったく違う。古代エジプトの死者たちが冥界への長い旅を行い、死後の世界での運命を生前なした行為で計られるのとは対照的に、折口信夫がここで描き出そうとした日本列島の古代の死者の霊は、生前になした行為の善悪などはまったく気にしていない。霊には倫理など通用しない、という考えがはっきり表明されている。
死者の霊はまた、時間の観念を持たない。霊の思考を突き動しているのはただ「類化性能」という無意識の働きだけであって、それを使って、百年も二百年も後の時代の女性を、「似ている」という理由で、自分の恋人と同一視しようとする。・・・・」と書き始めている。
これは脱線だけど、相撲中興の祖は青トラホテルの根拠地のある伊東市の伝説の人物河津三郎祐安で相手は股野五郎景久、この伊東市で行われた相撲の話は説教節『曽我物語』に出てくるから笑ってしまう。マッ僕のほかで笑ってくれるのはゲーリーくらいのもんだろうけど・・・・
當麻蹶速は奈良は葛城、當麻の人以外に何もわからないらしい。
野見宿禰はもう一カ所『日本書紀』に登場するが、それは、埴輪の起源説話として土師の始祖としての登場らしい。土師氏の古い4氏族の居住地の近くには必ず古墳群があることが知られている。
相撲埴輪なるものがあって葬送と相撲は関係深かったらしい。
土師氏は出雲とも関係が深かった。
平林さんも古代にミヌマのような信仰あったことを否定しているわけではなく、その信仰が「日本独自の信仰」だとする折口説に反論していること。
p136
「もちろん折口氏が説くように、神聖な水辺で神の妻となる巫女が機を織りながら、寄り来る神を迎えるという神婚説話とそれに関する祭儀が、我が国古代に存在したことは認められる。しかしこれとても我が国独自のものであることが証明されているわけではない。さらにオトタナバタ(たなばたつめ)の棚が、神を迎える巫女が神衣を織るために水辺に架け渡した棚であるかということも再考を要する事柄であり、・・・・」
ああ、桑原君が「・・・だから僕は黒姫山麓に居るんです」胸張ったのだけど、「蚕桑(ひめくわ)」’蚕’を’ヒメ’って読めるなんて知らなかった。
p148
「ちなみに、大和国城下郡の延喜式内社糸井神社は磯機郡川西町結崎の糸井神社に比定されているが、・・・・綾羽・呉羽は『古語拾遺』の言うように衣服のことだが、・・・本来は『大和志料』が述べるように「漢織呉織ノ霊ヲ祭」ったとみられる。なお『新撰姓氏録』大和国諸蕃条に、当社を奉斎したと見られる糸井造が見え、「三宅連と同じき祖。新羅国の人、天日槍命の後なり。」とある。・・・
当社の西750メートルには・・島の山古墳があり、同古墳の西側には、延喜式内社に比定される比売久波(ひめくわ)神社(川西町唐院)が鎮座する。・・・『大和志料』は「古来桑葉ヲ以テ神体トナスト、シカラバ姫桑ニシテ糸井社ニ縁故ヲ有スルモノナラン」と述べるが、『奈良県の地名』は社名は蚕桑(ひめくわ)を意味すると伝える。」
織女の渡来を記した記事が6カ所ほど『日本書紀』には見えるらしい。’東漢’って’あづまのあや’って読んじゃいそうだ。wikiによれば「阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした」。西漢氏は’河内の漢’と読む。
p142「呉国・百済いずれの渡来伝承にも倭漢(やまとあや、東漢)氏の関与が伝えられること」
北九州関連では
p140「応神紀37年2月、阿知使主らが呉より帰国して筑紫に至った時、胸形大神が工女を求めたので、兄媛を奉献した。今の筑紫国の御使君(みつかひ)の祖である。
p146「雄略紀10年、9月に村狭村主青らが2羽のガチョウを持って呉より帰国し、筑紫に着いた。ところが水間君の犬がこの鵞鳥を噛み殺したので、贖罪に鴻(かり)10羽と鳥飼人を献上した。10月に、この鳥飼人を軽村・磐余(いわれ)村に安置した。」
ここまで書き進んで、突然トピックな情報がもたらされた。
2009年10月22日県立橿原考古学研究所は奈良県桜井市の桜井茶臼山遺跡(3世紀末〜4世紀はじめ)の60年ぶりの再調査で全面が水銀朱で塗られた石室が発見された。と発表した。推定される水銀の使用量は200キロ!
産経ニュースによれば
「桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。」「和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。
・・・和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。」
「ヤマトの誕生と神々 三輪山のむかしばなし」田中八郎著 1996年彩流社刊には、奈良三室山(三輪山)を中心に桜井茶臼山古墳あたりの事情が詳しく書かれている。僕も、触発されて 「青トラホテル÷イフターム・ヤー・シムシム!(7)」を書いていてそれはこの「jump」に引き継がれている。
僕の興味の中心は「なぜ、北九州に根拠地を築いていた物部氏が奈良盆地!なんぞに移動したのだろう?それに続いてなぜ天孫族までがなぜ奈良盆地を目指したんだろう?」という疑問だったといっていい。
「jump」では北九州のミヌマについて多く語られているけれど、どうやらおぼろげながら、それは「若返りとか生まれ変わりとか生まれる前の世界や現世から旅立った後の世界」をつなぐキーワードの一つに、「jump」を書いている途上で、進化を遂げてきている。
今回のニュウスを聞いて桜井茶臼山古墳についてwikiしてみると、
「古墳の後円部の空濠の外に宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、さらに社殿があるのは何時のことか分からない。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する」などとでている。
また、桜井茶臼山古墳のすぐ近くには箸墓古墳古墳(3世紀後半、古墳出現期)があって倭迹迹日百襲姫命の墓だといわれているが、邪馬台国は奈良盆地にあったとする人々は卑弥呼の墓だ。なんてテキトーなことを言ってる。それはともかく今回jump(17)の文脈で言うと、平林章仁さんは、「箸墓は土師墓」ではないか?という語呂合わせをしていて僕にはウケた。桜井茶臼山古墳あたりは野見宿禰を祖とし埴輪製造集団の土師氏の一大居留地でもあったらしい。
棚機姫に関連する倭文(しどり)一族が居留した葛木地方は桜井茶臼山古墳、箸墓古墳古墳のある奈良盆地西の山裾より竹内街道を西向した、奈良盆地東の山裾にある。
ようやく『七夕と相撲の古代史』について書き始めたのにトピックな話題で長くなってしまった。次回に書き次ぐことにしよう。
ああ、もうそろそろ帰ってくるはずのカンボジアの風のミサキ、クメール相撲の研究進んでるかなあ〜


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